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このクリは,しばらく昔になりますが私が学生時代の1988年10月に,京都の吉田山で拾ったものです.突き刺さっているのはシギゾウムシの一種の口吻で,頭部のみが残っていて胸部と腹部はありませんでした.でも,どうしてこんなことになったのでしょうか.
シギゾウムシの仲間には,ドングリ.シイ・クリなどを専門に食べる種群がいます.彼らはこうした堅果に産卵し,孵化した幼虫は内部の種子を食べて成長します.産卵の際に,母虫はその名前の由来である長い口吻を堅果に突き立てて孔をあけます.つまり,この写真のゾウムシは,産卵のために孔を開けようとしたものの,そのまま死んでしまったと考えられます.死んでしまった理由としては,孔を開けている途中で,1)力尽きた,2)口吻を抜くことができなくなった,3)外敵に襲われて胸部以下を食べられた,などが考えられますが,本当のところはよくわかりません.どなたか同じような例を観察された方はないでしょうか.私自身は,勝手に2)だと信じているのですが,おかげで見つけた日は一日中,口吻が抜けなくて進退窮まったシギゾウムシを連想してしまいました.
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●井上健編. 1996. 植物の生き残り作戦. 平凡社. 「コナラ−動物たちに狙われるどんぐり」をお読み下さい.殻斗と種子食性昆虫との関係について記述しています.小見出しを紹介すると・・どんぐりとは?/大きな種子は得か?/早く地中に埋まらないと/昆虫にとってもごちそう/大発明,どんぐりのおわん,の5パートについて解説しています.
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西スマトラの自然環境の概観
スマトラ島の脊梁部分を走るバリサン山脈は3,000m級の山々を擁し,多数の火山が含まれている.これは,インド洋プレートがスマトラ島の下に潜り込んでいることと深い関わりがある.気候的には,このバリサン山脈から西側,つまりインド洋側では雨期と乾期の差がはっきりしない多雨地域となり,東側では降雨量が少なくて雨期と乾期の区別が明瞭になる.
西スマトラ州はスマトラ島の西側中央部を占め,インド洋に面した Padang を州都としている.東は Riau 州,南は Jambi 州と接し,州の北部に赤道が通る.Padang の緯度は南緯1度くらいである.州内の主な山には,Gn.(Mt.) Kerinci(3,805m),Gn. Merapi(2,891),Gn. Singgalang(2,877),Gn. Pantaicermin(2,690),Gn. Talang(2,597),Gn. Tandikat(2,438m), Gn. Gedang(2,262)などがある.海岸からすぐに急峻な山脈となるため,平野部が少なくて地形は複雑である.土壌は火山灰が積もったシラスが目につくが,山地では安山岩や石灰岩などの露出もみられる.Padang での年降水量は4,000mm前後,年平均気温は27℃.一応,9月〜12月に大きな雨期,3〜4月頃に小さな雨期があるが,乾期でも月250mm以上の降雨があるうえに変動も大きい.パダン東部にあたるバリサン山脈西縁では,インド洋からの湿った風が流れ込み,大量の降雨をもたらす.山地では8,000mmの降雨もあるという.年降水量4,000mmは日本の最多雨都市の尾鷲と同じであり,8,000mmはえびの高原(宮崎)や大台ヶ原(奈良)での日本記録にあたる.ものすごい多雨地帯なのだ.
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何種類のブナ科があるのか
では,西スマトラに分布するブナ科植物にはどのような種類があって,全体では何種類になるのだろうか.この最も基本的な問題に答えることは,当初はそれほど困難ではないように思えた.スマトラ島に分布するブナ科植物については,Soepadmo によると Castanopsis 11種,Lithocarpus 33種,Quercus 11種,Trigonobalanus 1種の合計56種あるとされる.ここまで分かっているなら,後は簡単だと思ったのが甘かった.
自分で採集した標本や Andalas 大学に所蔵されている標本を検討したが,まるで分からない.いろいろな理由があるが,1)同定の重要な鍵となる成熟堅果のある標本が少ない,2)種類によっては,種内変異を理解しながら分類群を認識するには標本点数があまりにも少ない,3)ときには別の種類の枝と堅果が同一台紙の上にマウントされている,4)私自身が熱帯のブナ科植物に習熟していない,などの問題があげられる.しかも,標本の中には,過去の文献においてスマトラから未記録の種類も含まれていそうである.また,記載そのものに疑問があっても,それを疑えるほどに採集品が充実していない種類もある.3)にいたってはそれが間違いであることを理解するには,枝と堅果の同定が個別にできなければならない.
西スマトラのブナ科植物を調べるにあたって,スマトラ島からの既知56種がきちんと私の頭の中で理解されていれば,それほど途方に暮れることはなかっただろう.しかし,どれもこれもはじめて見る種類では,頭の中の整理が追いつかない.初期の3回の渡航では,種類のグルーピングさえ満足に進まなかった.二つの標本が同一種なのか別種なのかを迷いだしたらきりがない.また,頼みの Herbarium Bogoriense の既同定標本にもいくつか疑問のものがあり,分類学的な再検討が待たれる種類もあることがわかってきた.
今のところ,西スマトラには何種類のブナ科植物があるのか定かではない.けれども,これまでの調査と過去に採集された標本の範囲内でみると,40〜50の間だと推定している.すでに同定を終えた種類は31種なので,7割方くらいが明らかになったと考えている.残り3割は,1)や2),あるいは未記載種の可能性が高いなどの理由によって,同定が進まないか同定を保留しているものである.結局,ブナ科だけを相手にしてここまでたどりつくのに,スマトラに5回,Herbarium Bogoriense に2回訪れ,足掛け4年もかかったことになる.
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この小文では,今夏の特別展をめざして私自身が約2年間にわたって行なった調査をもとに,琵琶湖湖岸の植物についての報告をしてゆきたいと思います.
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琵琶湖の特徴は,その広大な面積と多数の河川や内湖を擁することによって,複雑な自然環境を包含していることです.それゆえ,その生物相も豊かで,ビワコオオナマズ,ビワマス,ビワヒガイ,イケチョウガイ,セタシジミなど,数多くの固有種を育んでいます.意外にも,琵琶湖固有の植物(水草)は,ネジレモとサンネンモの2種類のみです.ネジレモはセキショウモの変種とされていますから,琵琶湖の固有種は植物に関してはサンネンモだけです.しかしながら,琵琶湖湖岸の植物相はたいへん興味深いものであることが最近の調査で明らかになってきました.
琵琶湖の植物相は,豊富な水草,多様な低湿地の植物,内陸部における海浜植物などによって特徴づけられ,多様性に富んだものであることが分かってきたのです.琵琶湖について,これまでその植物相が充分に調査されていなかったことを不思議に思われる方もあるでしょう.この理由は,1)広大なヨシ原などの原野環境が人の侵入を拒んで来た,2)山奥ではなく,人家近くの平野部に存在するため,調査の目が向けられなかった,3)木陰が少なく,炎天下での調査を強いられるので敬遠されてきた,などが挙げられると思います.とくに,「こんなところに面白い植物があるとは想像もしていなかった」という二番目の理由が大きいように思えます.調査と言えば山に登ってしまう植物屋の習性がその一因でしょう.一方で最近,琵琶湖周辺の湖岸道路建設とそれに伴うレクリェーション施設開発などが急ピッチで進んでいます.このために,研究者が湖岸に簡単に近寄ることができるようになりました.これによって,一番目の障害がなくり,湖岸の植物についての情報が得やすくなったのです.皮肉にも,湖岸開発が植物の調査を促進したとも言えるでしょう.
これまでは人の目に触れずにひっそりと生活をしてきた湖岸の植物ですが,近年の急激な開発によって絶滅が心配されるものも少なくありません.気づいたときには,既に生育地ごと消え去ってしまっている場合もあります.梅原・栗林の「滅びつつある原野の植物」(Nature Study 37(8))もこのような背景によるものです.湖岸の植物の調査は,開発の手が部分的にしか届いていない今がチャンスだと言えるかも知れません.
湖岸の調査がすすむにつれて,近畿では琵琶湖周辺に限られる植物の存在とその貴重性が認識されるようになってきました.しかし,実際のところ,まだまだ分からないことが多いのが実状で,その実体の解明はこれからだといえます.また,植物によっては,琵琶湖ではごく普通に見られるため,その貴重性が充分認識されていません.琵琶湖にたくさんあっても,よそではほとんど見ることのできない植物を知ってもらい,湖岸の植物相の貴重性を理解していただきたいと思います.そして琵琶湖の豊かな自然を理解し,後世に残して行くための参考となれば幸いです.
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ヨシ原という自然環境が大阪の歴史と関わりの深いものであることがおわかりいただけたと思います.ところで,ヨシ原にはヨシ以外にも様々な植物が生育しています.そのなかでも淀川などの大河川に特有な「原野の植物」を紹介しましょう.「原野」と聞くとあまり良いイメージを連想しません.けれども,それは人間が開墾して利用するには不向きであるだけのことで,そこに息づく生物たちの価値が劣っているわけではありません.最近の研究では,広々としたヨシ原は,一見すると単純な草原環境のように見えるけれども,その中身は多様性の高い複雑な生態系であることがわかってきました.ここにはいわゆるヨシ原の部分もあればオギなどのヨシ以外の植物が優占する部分もあり,様々な植生がモザイク状に分布しています.このような多様性の高い低湿地性の広大な草原を「原野」と呼びます.「原野」は大規模な河川氾濫原に特有にみられる環境で,近畿地方では琵琶湖・淀川沿いに集中して分布し,近江八幡市西の湖,伏見区向島,高槻市鵜殿などが典型例です.
「原野の植物」とは,ヨシ原をも包含する原野環境に生育し,近畿地方における分布が琵琶湖・淀川水系と他の大河川に限られる植物の総称です.具体的には,ヤガミスゲ・ミコシガヤ(カヤツリグサ科),オオマルバノホロシ(ナス科),ドクゼリ(セリ科),ノウルシ(トウダイグサ科),サデクサ(タデ科),コバノカモメヅル類(変種群を含む,ガガイモ科),タコノアシ(ユキノシタ科),ミゾコウジュ(シソ科)などです.「原野の植物」はそれぞれの種類によって環境の好みが微妙に異なります.にもかかわらず,これらの種類が集中して「原野」に生育するのは,河川氾濫によって多様な環境が常に維持されているからです.洪水によってつくられた裸地は植物の繁茂によってどんどん草原化してゆきますが,また次の洪水で新しい裸地が出現します.こうして,裸地状態から草原状態まで様々な段階の環境がモザイクのように共存することになります.洪水のはたらきによって常に新しい環境がつくられることとそれらが動的に変化することのバランスが,「原野」の多様性を保っている秘密なのです.
ところで,「原野の植物」は琵琶湖や淀川沿いでは普遍的にみられますが,他の場所ではほとんど見られない貴重な種類です.先にあげた9種類のうち,近畿地方で保護の必要があるとされるものが8種類,うち2種類は全国的な保護が必要とされる絶滅危急種にリストされています.大阪の平野部にこうした貴重植物が生き残っているのは意外な事実ですが,それだけに大阪を代表する自然環境としていつまでも大切にして行きたいものです.同時に,この多様な自然が淀川によって連綿と維持されてきたことも忘れてはならないでしょう.
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みなさんも新旭浜園地のような原野の中につくられた散策道を訪れて,琵琶湖の自然の一端を是非体感していただきたいと思います.でも,決して,薮蚊が多いから殺虫剤で殺してしまえとか,地面がぬかるんでいるからコンクリートで舗装してしまえとか,ヨシやオギの葉で怪我をするからヨシ原を芝生にしてしまえとか,こんなむさ苦しい薮は埋め立ててしまえとか,そういうわがままなことは言わないで下さい.私たちは,散策道を歩くことで原野の生態系をそっと覗かしてもらっているのです.以前は決して人が近寄れなかった場所です.彼らとつき合うほんのちょっとした礼儀,「長靴を履いて行くことと,長袖・長ズボンを着用すること,そして生き物たちとつきあう心のゆとり」,これらのことを忘れなければ,原野でひっそりと,しかし,精いっぱい生きている多様な生物のささやき声を聞くことができるかも知れません.
琵琶湖についての知識が「近畿の水がめ=臭くてまずい飲料水の供給源」ということだけでは悲しい気がします.実際に湖岸を訪れ,琵琶湖の自然がどんなものかを体感して欲しいと思います.もしかしたら,カビ臭さで悪評高い飲料水を供給せざるを得ないほど琵琶湖の自然は喘いでいるかもしれません.
広大で多様な原野も琵琶湖の湖岸を象徴する自然です.私達が,こうした自然と向き合って生きて行くために何が必要なのでしょうか.海浜植物の報告(本誌6月号)でも述べた文章を再録しておきましょう.「自然を残すことと開発(人間の利用)の両立は非常に難しい問題です.自然を継承するためには少なからぬコストがかかることも事実です.残すべきものの価値をしっかり認識して判断することが,今の我々「一人一人」に要求されています.」
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1.琵琶湖の渇水−1994夏
琵琶湖は滋賀県のほぼ中央部に位置し,面積約670km2,湖面標高85m,最大深度104m,120以上の一級河川が流入し,集水面積は3000km2にも及ぶ日本最大の湖です.1994年の夏は,全国的で記録的な小雨と猛暑になりました.琵琶湖も例外ではなく,湖面は6月4日に基準水位を割りこむとそのまま下降の一途をたどり,8月17日には-89cmの過去最低記録を塗り換え,もっとも水位の下がった9月15日には-123cmを記録しました.8月下旬以降は新聞各紙に連日のように報道され,下流の京都市・大阪市では取水制限となり,社会的にも大きな影響が出ました.
琵琶湖有数の河川である野洲川,安曇川,愛知川などは完全に干上がって河床が露出しました.琵琶湖では,水位低下によって湖岸線が後退し,逆に砂浜が数十メートル以上拡大して琵琶湖が一回り小さくなった感さえしました.びわ町海老江の沖合い2kmに浮かぶ小島は陸続きとなり,一時は観光名所としてにぎわったほどです.琵琶湖の観測史上初めてという今回の水位低下は琵琶湖の生物たちにどんな影響を与えたのでしょう.この小文では水草の面から渇水のもたらした影響について考えてみたいと思います.
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7.おわりに
渇水が水草に与えた影響の評価は,これまで述べてきたように非常に複雑です.あるものは大きな打撃を受け,あるものは渇水を耐え,またあるものは恩恵を受けたりします.コハクチョウの例のように,他の生物を介した相互作用の結果として影響のでる場合もあります.異常渇水が必ずしもマイナスの効果ばかりを生物に与えたわけではありませんし,かといってプラスばかりであったはずもありません.ここでは検討しませんでしたが,水生植物群落の再生能力もきちんと評価する必要があります.琵琶湖の長い歴史の中で,1994年の渇水が大事件だったのかどうかは,もう少し時間をかけて様子を見る必要がありそうです.
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1997年7月9日に滋賀県高島郡新旭町針江の琵琶湖岸でヨシ原の調査をした際,オオマルバノホロシが栄養繁殖していることに気付いたので報告します.
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このシリーズのHで報告したように湖岸の漂着物に混じって生育する例があり,水流散布の可能性が示唆されていました(藤井,1995).しかし,形態的には周食型散布(おそらく鳥による)果実なので,水流散布の果実(あるいは種子)を持つことが多い「原野の植物」としては例外的です.このため,琵琶湖岸でどのように効率的な散布を行っているかが興味の的でした.
今回,ヨシ原のまわりに生育している小さな幼個体をいくつか掘りあげてみたところ,太い茎が地中に埋まり,節から根と地上茎を伸ばしていることを確認しました(図1).地下に埋もれている太い茎は両端がちぎれたような状態です.生育環境は波打ち際からすこし陸地にあがった場所で,漂着物やゴミが溜るような位置でした.以上のことから,観察された幼個体は種子起源ではなく,漂着した太い茎が地中に埋もれて定着したものと考えられます.このことは,本種が茎の断片を栄養繁殖的に水流散布することを示唆します.
オオマルバノホロシの植物体は「ややツル状」になりますが,その茎は太くてもろく,水流による物理的な力に対しては比較的折れ易いと考えられます.この性質は,河川のように流速が早いところでは植物体のダメージが大きくてあまり適応的とは思えません.しかし,琵琶湖のように流れがゆるやかな環境では,茎の断片による水流散布(湖面を漂って分散し,漂着によって定着の機会を得る)を得る確率はずっと高いように思えます.琵琶湖周辺で本種が多くみられる理由の一つに,このユニークな繁殖戦略が「湖岸環境」で適応しているからだと私たちは予想しています.
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ヨシは「よしず」の原料です.ヨシ原では冬になるとヨシ刈が行なわれ,ヨシ原維持のために野焼きをすることもあります.近畿地方でヨシ刈の有名な場所は,淀川河川敷の高槻市鵜殿,宇治川河川敷の伏見区向島,琵琶湖の内湖の一つである近江八幡市西の湖です.ヨシ刈はこれらの地域の冬の風物詩となっています.
盛夏に茂るヨシ原とヨシ刈り後の冬の風景はとても対照的です(図1,2).冬の状態を見ただけでは,夏に3〜4mの高さに繁茂するヨシ原を想像することはちょっと困難です.冬のヨシ原ではヨシだけでなく他のほとんどすべての植物が枯れ,地下の根茎や種子で越冬します.それゆえ,冬季のヨシ刈によってダメージを受ける植物は少ないようで,夏になるとヨシとともにさまざまな植物が生長してヨシ原を形成します.このため,ヨシ刈の行なわれるヨシ原では,人為があるにもかかわらず,意外に低湿地性植物の種類が豊富です.ネィチャスタディ 37(8):3-7,40(9):3-8,40(11)5-10 等で紹介された「原野の植物」等もみることができます.
しかし,ヨシ刈とヨシ原の多様性の関係については,具体的なデータが乏しく,十分な検討ができないのが実状です.仮に,多様性の高さとヨシ刈に関係があるとしたらその理由はどのようなものでしょうか.想像をたくましくして考えれば,ヨシ刈をしやすいところ(通常は水没しない場所)が多くの低湿地性植物にとって適している,人間が行なうヨシ刈という撹乱行為が好適な環境を造りだしている(ヨシ原の維持や地表面の露出など),ヨシ刈が商業的に成立するほどの広大な面積が多様性の存続に貢献している,という三つが考えられます.ヨシ原とその周辺の低湿地の多様性や維持機構についての研究は近年急速に進みつつありますが,これらの問題を検討して答を出すには時間がかかりそうです.
大阪でも淀川に行けばヨシ原はまだまだ身近な存在です.ヨシ原の季節のうつろいを眺めながら,「自然と人の関わり」を考えてはいかがですか.
シリーズ11で報告したミゾコウジュ群落のその後の様子を継続観察した結果,興味深い知見が得られたので再度報告します.ミゾコウジュは河川の氾濫原に特有なシゾ科植物で,全国版レッドデータブックに危急種としてリストされています.淀川では多くの記録がありますが,琵琶湖ではかなり稀な植物です.今回の観察場所は,滋賀県高島郡新旭町針江〜饗庭にいたる湖岸道路近くの別荘分譲地です.
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ミゾコウジュは越年性の1年草なので,こうした個体群の急激な消長は予想されることですが,それにしても昨年の個体数とそれから産み出された種子数を考えると,これほど急速な個体数の消滅には驚かされてしまいます.ミゾコウジュの生育する路側帯では,この1年の間に電信柱が設置されましたが,周囲の環境が大きく変わったとは思えません.急減の原因はわかりませんが,種子散布や実生の定着段階に鍵があるのでしょう.なお,1995年より確認している別荘分譲地とその隣接道路では,相変わらず少数個体の生育が継続していました.
以上よりミゾコウジュの特性として,1)適当な環境があれば水辺でなくても細々と生活を続けることは可能,2)急激な個体群の消長を示すことがある,の2点を指摘できると思います.水辺の裸地的環境を好む本種が,どの様な繁殖戦略で個体群を維持し,そして群落の急速な拡大や減少をするのか・・・原野の植物についてはまだまだ調べねばならないことがあります.
1996年10月7日,枚方市楠葉地区の淀川河川敷左岸において植物調査を行った際,ホソバイヌタデの生態に関して面白い知見が得られたので報告します.ホソバイヌタデは,近畿地方では淀川沿いや円山川周辺などの大河川にのみ出現するタデ属植物で,近畿版レッドデータブックに保護すべき植物としてリストされています.
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状況から類推すると,土くれのブロック中に埋土種子として含まれていたものが,発芽・成長したと考えられます.面白いのは,高水敷の未崩壊部分にホソバイヌタデの生育がほとんど見られないにもかかわらず,崩壊途中のブロックからはかなりの個体数が出現していることです.これらの事実が示唆することは,1)埋土種子がかなり長期間眠る,2)崖崩壊による刺激に対してすぐに反応して発芽する,3)ブロックから洗い出される種子の一部は下流に散布される可能性を持つ,の3点です.
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目的地はスマトラ中部のインド洋に面した街,パダンだ.ジャカルタから飛行機で約1時間半の距離にある.パダンは西スマトラ州の州都であり,南緯1度のほぼ赤道直下に位置する.当り前だが太陽は大地と直角にまっすぐ昇って天頂を通過し,水平線(インド洋)と直角に沈む.夕暮れ時は太陽高度がかなりたかくても,あっという間に日没となるので文字どおり「水平線に太陽がすとんと落ちる」印象を受ける.12月の夜空ではオリオン座が真上に見えるのでずいぶん南にいるのだと実感する.海岸の街なので日中はむし暑く,日本の盛夏と同じくらいだ.理科年表によると年間の平均気温は27.0℃(ちなみに大阪の平均気温は16.2℃).ただし,夜間はかなり涼しく,夜明けころにはTシャツ・短パン姿では寒さを覚える.午前6時ころの気温は滞在ハウスのO先生の測定によると18℃くらいだ.赤道直下とはいえ,最低気温は快適温度並に下がるのである.「夜は熱帯の冬」とはよく言ったものだ.
熱帯と言ってもどこもかしこも暑いわけではなく,ちゃんと涼しいところもある.標高が高くなれば気温は低くなるのだから,少し山地に行けばよい.パダンから車で2時間ばかり北に行ったところにはブキッティンギィという避暑の街があり,さながら日本の軽井沢と言ったところだろう.よく似た関係は,ジャカルタとボゴールにも言える.私が調査に入っているパダン東方のウルガドには標高400m位の所にベースキャンプがあり,夜は寝袋がないと寒くて寝れない.
ところで,パダンは北部の観光都市メダンとともにスマトラ有数の都市で,近年は日本人観光客も呼び込もうと努力していると聞く.ホテルやデパートの建設ラッシュが進んでおり,ここ3年間の発展だけでも目ざましい.大通りに出ればタクシーを拾うのにも苦労しない.ただしN先輩から聞いた話だが,左手を挙げてタクシーを拾おうとしても止まってくれなかったそうである.なるほど,回教の文化圏のなかでも戒律に厳しい地域と噂に聞くだけのことはある.
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スマトラの自然環境
スマトラ島にはバリサン山脈と呼ばれる3,000m 級の山々を擁する脊梁山脈が連なる(図1の着色部参照).また,インド洋プレートがスマトラ島の下に潜り込むので,多くの火山がある.私が主な調査地とした西スマトラ州はスマトラ島の西側中央部を占め,インド洋に面したパダン(Padang)を州都とする.東はリャ州ウ(Riau),南はジャンビ州(Jambi )に接する.州内の主な山には,クリンチ(Kerinci,3,805m),メラピ(Merapi,2,891m),シンガラン(Singgalang,2,877m),パンタイチェルミン(Pantaicermin,2,690m),タラン(Talang,2,597m),タンディカット(Tandikat,2,438m)などがある.スマトラ島のインド洋側(西側)は海岸からすぐに急峻な山脈となるため,平野部が少ない.土壌は火山灰が積もったシラスが目につくが,山地では安山岩や石灰岩などもみられる.
パダンの気候
前回,熱帯の気候を少し紹介したが,もう少し詳しくお話ししよう.比較のために,パダン,尾鷲,大阪のクライモグラフを示した(図2).折れ線グラフをみれば,いかに年間の気温変化が少ないかが読みとれる.パダンの気温の年格差はわずか1℃,一方,大阪や尾鷲では20℃を越える.熱帯では気温的な季節変化はまったくないのだ.そのかわりに日格差がとても大きく,一日のうちに春夏秋がやってくるみたいだ.
さて,パダンでの雨だが,これがたいへんな量だ(図3).年降水量4,000 mmは日本の最多雨都市尾鷲とほぼ同じ,大阪の3倍にもなる.とにかくすごい量の雨が降る典型的な湿潤熱帯である.それでも,年間を通してみると,雨の多い時期と少ない時期があり,弱いながらも雨季と乾季がある(図2).棒グラフをみると,3・4月に弱い雨期,10・11月に強い雨期,それらの間がやや小雨になる.しかし,これは30年間の平均値としてみればの話であって,実際には年によって時期がずれるし,月ごとの変動も大きく,何とも曖昧だ.1〜2週間くらいまったく雨が降らないと思ったら,連日激しいスコールが続いたり,とても気まぐれだ.それでも,長期に滞在するとやっぱり雨季・乾季の差異を感じることができる.しかし,乾期とはいっても実際には相当量の雨が降っている.パダンの最小雨月降水量は200mm,大阪の最多雨月降水量は200mm,最大と最小がほぼ同じなのだ.パダンでは最も雨の少ない月でも大阪の梅雨ぐらいの雨が降る.まさに湿潤熱帯なのである.
ところで,パダンはスマトラ島のなかでもとくに雨の多い地域である.これは,パダンがインド洋に面して背後にはバリサン山脈を抱えていることに深い関わりがある.インド洋からの湿った風がバリサン山脈にぶつかり,その西麓に大量の降雨をもたらす.そこがパダンだ.スマトラ島全体としては,西側(インド洋側)が多雨地帯で,東側(マラッカ海峡側)にいくほど小雨となり,雨季・乾季が明瞭になる(図4).
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これまでイセウキヤガラBolboschoenus planiculmis (F. Schmidt) T. Koyama は、北海道・東北・関東・東海地方の太平洋側と四国・九州地方に知られていた(小山,1980;角野,1994;藤井,1995)。今回、大阪市立自然史博物館収蔵のコウキヤガラと同定されていた標本を再検討した結果、大阪府にもイセウキヤガラの生育していたことが明らかになったので報告する。
標本は里中長治氏が貝塚市二色の浜で採集されたものである。桑島(1990)にはコウキヤガラの産地として二色の浜が挙げられているが、これは里中氏の標本をコウキヤガラと誤同定して引用したと思われる。
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1997年6月18日,大阪市旭区赤川の「城北わんど群」で行事の下見をかねて植物調査を行った際,オオマルバノホロシを記録しました.本種の近畿地方での分布は琵琶湖・淀川水系と円山川に限られていることが知られており(藤井,1994),近畿版レッドデータブックに保護すべき植物としてリストされています(レッドデータブック近畿研究会,1995).
大阪府下での過去の記録は高槻市鵜殿と枚方大橋近くのいずれも淀川沿いの2ヶ所です.下流の東淀川区豊里地区では見つかっていません(梅原・栗林,1991).それゆえ,今回の発見が大阪市内における本種のはじめての記録となるので,ここに報告します.
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博物館では、毎年の夏の終わりに標本同定会を行っています。1995年の同定会では、堺市金岡町の「寺池」というため池で採集されたミクリの一種が平野弘二さんによって持ち込まれました。
ミクリというのは、果実の集まった形が「栗」に似ていることから「実栗」の意味でついたものです。この仲間は似た種類がいくつかあるので、詳しく調べてみると、オオミクリという種類だとわかりました。これにはとてもびっくりしました。じつは、オオミクリは近畿地方では、めったにない幻の植物だったからです。
大阪府でのオオミクリの記録は、これまで2ヶ所しかありませんでした。このうちの1ヶ所(堺市長曽根町)はため池が埋め立てられてなくなり、もう1ヶ所(岬町)は現在どうなっているのかわかりません。今回の堺市金岡町で発見されたものは、大阪府で3番目の記録であり、現在自生が確認されているただ一つの群落です。
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大阪府枚方市と京都府田辺町の境界に接する尊延寺地区は、山間の開けた谷あいに水田が広がり、小さな溜池が点在する典型的な里山環境です。1995年10月に植物相調査を行った際、これまで知られていたミズギボウシ、サワシロギク、イヌセンブリなどの大阪府下では比較的珍らしい植物に加えて、新たにミズニラ、オオアカウキクサ、フトイ、ビロウドイチゴの生育を確認したのであわせて報告することにします。
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ボタンウキクサの本州での越冬については、神谷・國井(1995)らが鳥取県における植物体そのものの越冬を報告している。しかしながら、本種の種子越冬とその発芽については、今のところ充分認識されていないと思われる。筆者らは路地栽培条件下での種子越冬および発芽を観察したので報告する。
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これまで、ボタンウキクサが栄養繁殖と種子繁殖の両方を行うことは知られていたが、本州における種子越冬については充分認知されていないと思う。今回の情報は断片的ではあるが、植物体で越冬できない地域でも、種子による越冬が可能であることが判明した。また、一部の種子は2回の冬を越した。一方、実生個体は春から冬までの1シーズンで、開花結実できるほどに成長することはできなかった。以上のことから、種子越冬のみによって永続的に個体群を維持することは難しいと思われる。しかしながら、越冬限界地域では種子形態も越冬様式のひとつとして機能している可能性があり、植物体越冬の限界温度、種子越冬の限界温度、発芽に必要な温度、発芽から開花結実までの成長に必要な期間等の正確な情報を収集する必要があるだろう。また、野外での実生発生状況についても読者の注意を喚起したい。
本誌47巻7号に,琵琶湖湖東地方で見たヨシ葺き屋根について書いたところ,滋賀県八日市市在住の会員,森小夜子氏からお手紙をいただきました.興味深いだけでなく,貴重な情報でもあると思いますので,ここにその内容の一部を紹介したいと思います.
”「ヨシ葺きの屋根」のある神社は,私も訪れたことがあります.この大浜神社は,無形民俗文化財「伊庭の坂下し」と呼ばれる勇壮な祭りが行われ,湖東地方では有名な神社です.写真も撮っていたのですが,ネィチャスタディを読むまで,「ヨシ葺き」だとは気づきませんでした.その後,気になって隣の五個荘町木流の苗村神社を訪れて年配の方に訪ねたところ,ここも「ヨシ葺き」でした.差しかえ(部分的な修理)をすると50年以上耐えるとのこと.また,材料は業者任せなのでどこから調達されてきたかわからないということでした.
1995年に永源寺町黄和田を訪れた際には,山際にススキが刈られて置いてあり,屋根葺き用と見受けました.ちなみに多賀町の私の生家では,ヨシもススキも入手しにくいせいか,「麦藁葺き」でした.かつては滋賀県下でも地域により屋根葺き材料に特色があったのでしょう.”
滋賀県朽木村の生杉では,いまも多くの「ススキ葺き」の屋根を見ることができます.周辺には多くの「カヤ場」があります.ただし,水田が放置されてできたカヤ場にはヨシがかなり混じって生育しています.ときには両者が区別されることなく一緒に使われているのかも知れません.けれども純然たるヨシのみで葺かれた屋根は,やはり珍しいものだと思います.琵琶湖にあるのだから,大阪(淀川沿い)にあってもよさそうなものですが,私は知りません.みなさんの身の回りやかつての記憶をたぐって,何か情報がありましたらお教えください.
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1996年6月23日,茨城県筑波の茎崎町で開かれた学会に出席したおり,少し時間の余裕ができたので牛久沼のヨシ原をみてきました.牛久沼は霞ヶ浦の西方に位置する小さな湖で,日本最大の利根川水系の一部を形成しています.牛久沼のすぐ西隣には「原野」の自然がよく保たれた小貝川が流れており,琵琶湖と比較するためにも一度尋ねてみたかったところです.牛久沼ではヨシとマコモが大群落をつくっていましたが,琵琶湖では経験したことのない面白い光景を見たので写真で紹介します.
図1はマコモ群落を撮影したものですが,マコモの葉がきれいに刈り取られた跡です.不思議に思って近くにいた漁師さんに尋ねると,「お盆用の伝統的な飾りをつくるのに刈り取っている.マコモの葉は,乾燥させたときの緑色が美しいので使っている.ずっと下流の新利根村からマコモを刈りに人がやってくる.」とのことでした.牛久沼周辺ではかなり大規模にマコモ刈りが行われているようで,この地方のヨシ原(マコモ原といった方がよいかもしれない)が生活のなかに取り込まれている一例だと思います.
ところで,以前に見たテレビで,秋田県の八郎潟で正月の締め縄材料用にマコモを刈る風景が報道されたのを思い出しました.締め縄といえば昔は稲藁を使ったものですが,最近はコンバインの導入によってバラバラに砕かれてしまい,稲藁の入手そのものが難しくなっているようです.そこで,稲藁の代用にマコモを使うのですが,美しい緑色が好まれて評判がいいということでした.今回の牛久沼のマコモ刈りも八郎潟と同様に稲藁の代用品の可能性もありますが,お盆向けなので古来からのマコモ刈りがあったことも否定できません.帰りのバスの発車時刻に追い立てられ, 地元の漁師さんとの会話もそこそこに引き上げたので,このことを確かめるのを忘れたのが残念です.それと,この地方の「お盆の飾り」はいったいどんなものなのでしょうか.利根川水系を再訪する宿題ができてしまいました.
<藤井伸二:博物館学芸員>
(図は本誌をごらんください)
図1.マコモ刈りの跡(茨城県茎崎町牛久沼,June 24, 1996)
はじめに
今年の4月から華やかに始まった「国際花と緑の博覧会」において,大阪市はホストシティであるとともに大温室「咲くやこの花館」を出展して話題を呼んでいます.自然史博物館では,この「花博」への貢献として,「花博出展植物永久保存事業」というものを進めています.この事業は,「花の万博」に出展された植物を押し葉標本にして自然史博物館で永久保存し,「花の万博」の実物記録とするとともに,将来にわたって学術研究や展示に活用するための資料を作ろうというものです.
現在,「花博」の会場内に自然史博物館の作業所を設け,植物研究室の2人(岡本,藤井)が常駐して押し葉標本を作っています.新任の藤井は,採用早々,花博の会場にほうり込まれて,慣れない仕事に四苦八苦しています.花博の会場内にある膨大な量の植物を標本にするため,自然史博物館に出てこれるのは週に1回程度という忙しさです.この多忙な私たちの仕事と,花博の見所や面白い植物を紹介してゆこうと思います.
花博での仕事
花博に出展されている植物は,基本的には一時的な展示物ですので恒久的なものとしては残りません.切り花などは言うまでもなく一時的なものですし,国外から持ち込まれた根付きの植物の中には,花博の終了後,本国に送り返されるか,さもなければ処分される運命にあるものもあります.植物を研究している者にとって,せっかくの宝の山(外国の珍しい植物など)が花博の終了とともに消えてしまうことは余りにもったいなく思えます.花博のために日本各地はもとより世界中からやってきた植物を,できる限り,恒久的な文化的財産として残したいものです.私達の自然史博物館としては,押し葉標本によってその記録を作るという試みを行っているわけです.
今,私達が花博の会場で実際にやっていることは,植物を採集してきてそれを押し葉にすることです.採集に先立って各出展者の御理解と御協力をいただかなくてはなりません.勿論,植物は展示品であるわけですから,展示を損ねないような採集の時期と採集量を出展者と相談することも必要です.また,外国から輸入されたものだと,さらに法的な手続きも必要です.こうした手続きをしている間に,目当ての植物はもう花が終っていて標本にならないようなことも起こり得るので,スムーズに作業を進めることが必要です.実際に仕事を進めてみると結構大変なものです.
私達の仕事の中で重要なのは,広い花博の会場のどこにどんな種類の植物が咲いているかという情報を集めることです.そして,その植物はいつ頃が採集適期かという予想もたてねばなりません.この情報集めのために,私達は暑い炎天下の花博会場を,常に歩き回っています.1日で会場を5周したこともあるくらいです.
中世のヨーロッパでは,大航海時代に数多くの探検家たちが一角千金を狙って異国の花を捜し求めました.当時の貴族の中には,珍しいユリやチューリップのたった1個の球根と城1つとを交換した者さえいたそうです.珍しい植物を求めて世界を駆け巡った人たちはプラントハンターと呼ばれています.花博内のトウキュウフローリアム109に展示されているバンクスの植物銅版画を見ていると,当時の彼らの植物へのあくなき情熱が伝わってくるようです.彼らの植物探索は日本にも及び,わが国から持ち出された植物をもとに品種改良がなされたものも数多くあります.ヘメロカリスやアジサイなどはその例です.
花博の会場の中で,私達が植物を求めて歩く範囲はごく狭いものですが,世界からやってきた植物を採集するという点では大航海時代のプラントハンターの縮小版かも知れません.当時の彼らが見知らぬ植物に胸を踊らせた体験を,いま一度「花博」で体験できるかも知れません.
話は元に戻りますが,花博では「光の館」のように短期出展が中心で,隔週に出展者が入れ替わるパビリオンもあります.こうしたものについては,入れ替えのときに不用になった植物をいただいてきて標本にします.この入れ替えは,深夜に行われ,しかも一度に大量の植物が処分されるので,植物の学芸員だけではとても対応できません.そこで,植物学を専攻する大学院生を中心としたアルバイトの人たちに手伝ってもらいながら採集を行なっています.一晩の採集で,数百の植物が集まることも珍しくありません.
夜の作業は,さながら戦争のようです.出展者の人たちはできるだけ早くかたずけ,さらに翌朝までの短い時間内に次の展示を完成させなければならないのです.私達はその作業の邪魔にならないようできるだけ手早く,そしてなるべく多くの種類の植物を採集するべく頑張っているわけです.
採集の後は植物を新聞紙に挟んで乾燥器に入れます.これは,採集した植物を一枚一枚丁寧に形を整えながら新聞紙に挟んで押してゆくという骨の折れる作業です.また,たくさん集められた植物のために,自然史博物館の大きな乾燥器ですら一杯になってしまうこともあります.現在私たちが行っている作業は,こうして乾燥した押し葉を,仮保存するというところまでです.最終的に台紙に貼った美しい標本が完成するのは,もう少し後のことになります.数年先には,花博で展示されていた植物が標本となって皆さんの目に触れる機会が訪れることと思います.
本当は,この文章はもっと早く書く予定だったのですが,花博の作業が余りにも大変で,文章を書くどころか悲鳴をあげるので精いっぱいの状態でした.具体的な仕事の中でのこぼれ話は,各々の植物が出てきたときにお話することにして,これから花博でみられる植物について紹介していきたいと思います.
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