Argonauta 2: 1-2
巻頭言 厳密性はどこまで求められるべきか
ゼミなど研究討論の場で、発表者に対して「もっと突っ込んで調べるべきだ」とか「これではデータが足りない」といった批判がなされることがある。これについて、私は大学院生のころから、皆がどういう基準でそのように言っているのかが疑問だった。自分が発表者になったゼミの時、「ここまでやりましたがまだ足りませんか。どこまでやればいいんですか。基準は何ですか。」などと逆に問いかけてみたこともあるが、納得できる答が返ってこない。どうも、近似の研究例やその分野における一般的なレベルからなんとなく、ともすればその場の雰囲気や質問者の気分によって決まっている気配さえあり、結局はケース・バイ・ケース、場当たり的にゆれ動いているように見える。はなはだしきは、自分の発表ではextrapolationで話をしていながら、他人のinterpolationを批判する、といったことも起こる。批判の内容は、研究者のその後の方向性に影響を与えうるし、それは若手の大学院生などでは時として深刻である。こんな重大なことを、どういう基準で行うべきか、つきつめて考えている人がほとんどいないということが、私には不思議だった。具体例に即して、考えてみる。
大学院当時、私は巻貝の室内での行動リズムの実験をやりかけたことがある。野外でのリズミックな行動の証拠をつかんでいたので、LDサイクルでentrainされる体内リズムが存在するかどうか、確かめてみようと思った。その時、設備の相談に乗ってもらった教官から、電気をいきなりつけたり消したりするのではなく、間に薄明期を設けたらどうかと言われた。実験は野外を模して行うべきだという信念らしく、他にも波とか温度とかいろいろ言う。方法を洗練させて行こうとするといろいろあるのだが、一方生理学の実験ではいきなりスイッチをon-offして実験し、それでリズムの研究は十分成り立っている。言うことはなんとなくわかるが、どうも釈然としないという印象をもった。
最近の事例に属するが、あるゼミで海岸貝類相の長期変動のデータを紹介した。われわれは年1回、春の大潮時に調査をして経年変化を調べているが、これに対して、なぜ毎月やらないのかという意見が出た。この研究では年1回の体制で調べて、温度上昇に伴う南方性種の比率の増大という明瞭な結果を得ている。毎月調べれば議論できる内容はふえるだろうが、それはまた別の話である。ただくわしく調べればよいというものでもあるまい。労力的に無理、とかわしたが、質問者の意図がよくわからなかった。
八重山に住んでいたころ、石垣島の土地改良とサンゴ礁の関係について調べた。私はそれまでサンゴを扱ったことはなかったが、予備調査の結果から直感的に判断して、10mのトランセクトを河口周辺に108ヶ所設けて、生、死サンゴの被度を調べるという方法をとった。結果が出てから、私はデータを沖縄のサンゴ礁学者に示して意見を求めた。すると彼は、トランセクト法はだめだと言う。欧米で批判の論文が出て、もう使われていないらしい。納得できないので、それならなぜ、河口の北は生存率が低く南は高いという結果が出たのか。方法がだめならこんなはっきりした傾向が出るはずないのではないかと反論すると、それに対しては明確な答がない。しかし後に原稿に対しては建設的なコメントをくれたので、私のやり方を認めてくれたのかもしれない。
他者の研究を評価する場合、本人が何を言おうとしているかをまず汲み取ることが必要である。それが意味のあることかどうかという吟味はありうるが、意味を認めるのであれば、次に厳密性の議論となる。より精密にやるべきだという批判は、本人の研究計画に欠陥があり、このままでは目的が達せられないから精度を上げて解消しなければならない、という形でのみ意味を持つ。このことは信頼度の問題にも拡張される。本人が、たとえば70%の信頼度で話をしている時、こうすれば80%になるというアドバイスはあってよい。しかしその70%が、科学的研究が共通に満たすべきレベルに達しているのであれば、それ以上やるかどうかは発表者自身の判断である。10%精度を上げるために大きな負担が必要なら、そのエネルギーを他のテーマに振り向ける方が、全体的に見てプラスかもしれない。
いきなりスイッチをon-offするLDサイクルの実験、年1回の貝類相調査、トランセクトによるサンゴ礁調査など、いずれも調査者の意図を満たし、明瞭な結果を得ている限り、それで十分と言える。もし単純なon-offシステムによる実験がうまく行かなかったら、そこでtwilight
zoneを設けてやり直してみるということはありうる。そうしなければリズムが誘発されない生物もあるかもしれない。年1回の調査であっても、もともとの自然内部の変動幅が大きければ、その程度の粗い枠組みでも傾向は検出できる。これを、魚と網の目の関係にたとえてみてもよい。魚が十分大きければ粗い目の網にもかかる。その時、ただそうする方法があるというだけの理由で、目をもっと細かくすべきだという議論は意味がない。
本人の意図と結果の明瞭さ、暫定的ながらこの二つが、求められる厳密さについての尺度になり得るだろう。ただし後者の場合は若干の理論的検討が必要である。「結果の明瞭さが方法の正しさを証明する」という命題は、実際には常に成り立つわけでない。少ないデータで点を打ったらきれいな相関が出たが、データを増やしたら点がばらけて有意でなくなった、などは研究者がしばしば経験することである。統計の言葉で言えば、十分な検出力を前提としてのみ、この判断は成り立つことになる。ところでこの、明快な結果を見て方法も正しいのではないかと我々が感じるのはなぜなのか。これは案外、認識論上の興味深いテーマのように思われるし、また、上記の「科学的研究が共通に満たすべきレベル」とは何なのかという大きな問題もある。科学哲学はこれらの問題に対して、どのように答えるだろうか。
いずれにせよ、精密化の議論にはどこかで何らかの歯止め、ないし必要とされるレベルについての基準が必要である。そうでないと、批判を受けた側は自分がどこまでやったらよいのかわからなくなり、研究の意義を見失って、人から言われるままに際限なく細かい議論に踏み込んで行くことになるだろう。これは我々の周囲にもしばしば見られるパターンである。個々の事例においてどこまで厳密に話を詰めるべきか、そしてその判断はどこから来るのか。研究者が常に意識していなければならないテーマと思う。
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