Argonauta 3: 1-2 (2000)
巻頭言 今錦の暴走
学生時代に、大学の講演会で今西錦治(当時の学生の通称でイマキン)の話を聞いたことがある。講堂の壇上で、小柄ながらがっしりしたおじいさん、といった風体の今西錦治が、自らの進化観を紹介しながら、自然淘汰、獲得形質遺伝、定向進化などの諸説をバッサバッサと切りまくっていた。たしか黒板に書いた前二者の上に×印、定向進化にだけ△がついていたと記憶する。私は呆気にとられてそれを見ていた。後日、所属していた水生昆虫の研究グループで、私はこの話を持ち出して感想を述べた。「今西錦治はむちゃくちゃだ。獲得形質の遺伝や定向進化よりも自然淘汰が主流になるまでには、膨大な議論があったはずではないか。それをふまえずに、頭ごなしに私の自然観はこうだからそれを信じなさい、と言われて信用できるか。ああいうのは科学じゃない。」今西の社会生物学は、水生昆虫の棲み分け論に始まる。同じ大学の50年後輩として水生昆虫をいじっている私たちにも、今西の業績は強く意識されていた。しかし私の言い分にとりたてて反論はなく、ただ、当時人類学教室の院生だった高畑由紀夫氏がなだめるように、「あの人は神様なんです。」「だから、あの人は神様なんです。」とくり返していたのが印象的だった。
どの分野で研究をはじめるにしろ、過去に似たような研究例があるものだ。それらをどの段階から参照すべきかは意見の分かれるところで、初期から見ていれば重複や二番煎じが避けられる反面、既定の枠組みにとらわれすぎて独創性が育ちにくくなる難点もある。しかしいずれにせよ、成果を公表する段階になればその分野での業績をふまえ、その流れに対して自らの研究を位置づけるのが一般的ルールになっている。そうしないと、雨後のタケノコのように同じような仕事が現れては消え、消えては現れ、その分野の着実な進歩がおぼつかなくなるということが、その考え方の背景にあるだろう。
私もそのように信じてこれまで自分の研究を行い、まとめて来たのだが、次第にこのルールを貫徹することに苦痛を感じるようになってきた。それは、一つには私の立場上の問題がからんでいる。最近ある海外誌に、貝塚出土貝類の分析を内容とする論文を送ったところ、rejectになって返って来た。理由はいろいろあったが、特に問題とされたのは、欧米で行われた考古学の同種の業績をふまえていない、ということのようだった。そこで、別の雑誌に投稿するべく関連文献の収集をはじめたが、その作業は困難を極めた。それらの論文は、ドイツ、フランス、アラビアなどの、circulationの限られた雑誌や単行本に発表されており、日本にないものも多く含まれている。著者本人への別刷り請求はもちろん、住所がわからない分は知人を通じて調べてもらったり、人を介してBLLDに注文を出す、関西や関東の大学や博物館を走り回って調べる、など。「一民間人」にすぎない私は、公共機関の共同利用システムを利用することはできず、直接行っても「所属機関の図書室の推薦状」なる物を要求されて往生することもしばしば。コピー代も交通費も、むろん自弁である。ようやく一通りのものをそろえるのに、約半年を要した。特に、生態学と考古学の境界分野に踏み込むこのようなケースは、日頃とは勝手が違って情報収集が難しい。私の立場ということは置いても、研究者が専門からはみ出した時に生じるこの種の困難が、研究の自由な発展の足かせになる可能性は否定できない。
自分の研究に直接関係する過去の業績ばかりではなく、その分野の現在の趨勢を理解しておくことも必要になる。そういうことを、論文のIntroductionやDiscussionに書くように要求されることがしばしばあるからだ。しかしトレンドをフォローしても、研究そのものには役に立たないことが多い。私がタマキビの行動の研究を始めた頃は、走光性や走地性に注目した生理学的アプローチが主流を占めていた。そこで私はそうした視点で行われた多数の文献を読んだが、研究方針に示唆を受けるものはほとんどなかった。タマキビ類は、岩から剥がすと行動が変わる。このことは今では常識になっているが、そのことをふまえず、室内の実験結果から野外のパターンを説明しようとする研究が、意味を持たなくなるのは当然だった。あるいは、群集研究に多変量解析がよく使われているからといって時間をかけて難解な文献を読んでも、自分の目的には合わず、結局以前と同じアプローチでやっている、などのこともある。
流行は移り変わる。今、何らかの方向性で多くの研究が行われているからといって、10年後にもそうであるとは限らない。このことは生物相の長期変動などを扱っているとよくわかる。私がこのシリーズの研究を発表し始めたころは、論文を投稿すると「種間関係の視点がない」というコメントがついたものだった。当時は捕食、競争など、種間関係から群集を論じる研究方向が潮間帯生態学の主流だったのである。しかし今は、そうしたコメントをつけるreviewerはいない。代って盛んに言われるのは、コドラートの配置やレプリケートの数など、方法論である。しかしこれもまた、あと10年したらどうなるかわからない。種間関係にしろ調査デザインにしろ、言われれば触れないでもないが、Discussionで述べたそれらについて、あと何十年かして私の論文を読んだ読者が「なぜこんなことを長々と書くのか」と疑問に思う可能性が、私はかなりあると思っているのである。いずれにしろ私としては、いったん作った研究の枠組みを途中から崩すわけにはいかないので、流行がどうあろうとそのままのやり方でデータを積み重ねて行くしかないと思っている。
こうしたことを考えるようになったのは、一つにはある程度長く研究を続けてきた、つまり年をとったせいでもあるだろう。研究を始めたばかりのころは、今のtrendがこのまま発展しながら続いて行くのであって、流れそのものが他に移り変わるなどのことは考えもしなかった。しかし現実にはそれに近いことが起こっている。いわば「諸行無常」の実感が、「その分野の業績を十分にふまえる」ことをむなしく思わせるのである。年といえば、もうあまり時間がないということもある。新しいことを吸収する能力はこれから次第に衰えて行くだろうし、それにかける時間も惜しい。そうであればいっそ、過去の業績がどうとか、分野の流行がどうとかにとらわれず、自分が直感的に正しいと信じる方向に突っ走るのが一番効率的ではないのか
…。とここまで考えて、これはかつて自分なりに批判していた「今西錦治の態度」そのものではないかと、いささか愕然とする。‘イマキン’にならってつい暴走しかける自分を、かろうじてなだめている今日このごろである。
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