石井 実(大阪府大 農学部)
私はいつも「昆虫の立場」で自然を見ているような気がします。「職業柄そうし
ようと努力しています」というのではなく、昆虫少年の頃から、そういう習慣いや習性が身についてしまっているようなのです。例えば、私が「よい林」と言ったら、それは「いろいろな昆虫がいそうなよい林」と言っているのと同じです。そういう目で見ると、日本全国、昆虫にとってのよい環境はどんどん減っています(「環境」という言葉はくせ者で、単独で使うと暗黙の了解で「人間にとっての環境」という意味になるようです。だから、他人と議論する時には、相手の言っている「環境」の「枕詞」がいったい何なのかを確認する必要があります)。特に、里山、草原、湿地、海浜などにすむ昆虫の中には絶滅の危機に瀕しているものが少なからずいますが、原因はよくも悪くも人間です。中でも、今回の自由集会のテーマにもなっている「里」あるいは「田舎」における伝統的な土地利用の変化にともなう環境の変化は、多くの日本的な動植物を危機におとしいれています。このことについて植田邦彦さんや重松敏則さんと書いた「里山の自然をまもる」(築地書館、1993年)は、いつのまにか4刷まできました(3月8日の朝日新聞に「里山の価値を見直そう」という社説が載ったくらいですから、里山もだいぶ市民権を得てきました)。
京都精華大学の小椋純一さんが、江戸・明治時代以前の里山は「はげ山」状態だ
ったかもしれないと述べていますが、それなのになぜ里山の昆虫が現在まで存続できたのでしょうか?私は、ひとつには「里」あるいは「田舎」がいろいろな意味で生物に優しかったこと、そして「天狗」や「鬼」のいる「奥山」が里山の向こうにあり、裸地から河畔林にいたる各遷移段階の植生や湿地的な環境をその周辺に散りばめて流れていた大小の河川がそれらを結び付けていたからではないかと考えています。里の自然を見直す雰囲気が盛り上がっているいまこそ、このような「コア」「バッファー」「コリドー」の配置やネットワークをも視野に入れ、日本の自然を千年のレベルでまもる方法を考えたいと思っています。