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日本における陸水生物学という学問の確立と発展に尽くすと同時に、京都大学教授、理学部付属大津臨湖実験所長として、後進の育成、陸水学の普及に努めた。もうひとつの偉大な足跡として、日本の博物学史の研究があげられる。『日本博物学史(1973)』『博物学史散歩(1978)』『年表日本博物学史(1989)』『博物学者列伝(1991)』などの著作は、膨大な資料に裏打ちされ、博物学と博物学者に深く傾倒して書かれた文章には胸を打つものがある。 |
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大阪市立自然史博物館を拠点にして活動している関西トンボ談話会の生みの親。軍医として戦地で多くの人命を救い、戦後は堺市内に診療所を開き、日本学校医会副会長も務めた。2004年末にでた論文で解明されたカワトンボ問題にもすでに卓抜した見解を出しており、ルリボシヤンマの分布を地史学的見地から論説するなど、常に時代に先駆ける活動を重ねた。 |
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大阪の中津に生まれ、仕事は父親の跡を継いで大工の棟梁(戦後は郵便局の仕事に従事)。仕事の関係からか、若いころから古い建築物さらに石造物に興味を持ち、大阪近郊の各地を歩き回って、調査。その後、興味は、古代の建築から古代の大阪へと移っていった。徹底した観察と資料の収集によって、大阪平野のおいたちを明らかにすることに取り組んだ。大阪平野の工事現場ではよく貝化石が見つかることから、貝の研究も行い、とくに淡水貝の分類では学会でも高く評価された。 |
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大阪府立市岡高校の先生として停年まで勤めならが、微小貝の研究を進めた。梶山彦太郎さんとの共著『大阪地下の貝化石』は、大都市の地下から出る更新世・完新世の新しい時代の化石を網羅して、図鑑としても役立つ貴重な文献となった。貝の同好会である阪神貝類談話会の創立者の一人で、会の運営や雑誌の編集に尽力し、愛好者に対する専門的な講義もした。 |
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(株)環境科学の同僚の森正人さんと二人で『図説 日本のゲンゴロウ』(森・北山、1993)という図鑑を出版。吹田市出身で、小学生の頃には蝶に、京都府立大学農学部・生物研究会時代にはカミキリ類に、そして三井製薬・環境科学勤務時代にはゲンゴロウ類とチビゴミムシ類に熱中した。 |
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大阪市出身。高校生の頃の1973年に淀川でヒヌマイトトンボを、翌年に西表島からタッパンルリシジミを発見したことで知られている。京大入学後はトンボから蝶へ研究範囲を拡げ、1987年に初めて中国へ行ってから甲虫類を含めた中国の昆虫調査にのめり込んだ。1990年代には当時外国人の訪問が許されていなかった中国の奥地に探検家のように遠征し、ウンナンシボリアゲハ原名亜種の再発見、オウゴンテングアゲハの中国大陸側多産地の発見など様々な発見をした。 |
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近世大坂の偉大な町人学者、なにわ知の巨人(大阪歴史博物館編、2003)というべき人物。徳川時代、大坂北堀江の酒造家に生まれ、少年の頃から絵画、詩、篆刻などを習い、いずれにも熟達していた。同時代の著名な芸術家、文化人の多数と往来があり、大名、朝鮮通信使節団の学者、長崎の西洋人らとの交流もあったという。豊富な蔵書や物産など種々のコレクションは研究目的に集められ、これらは個人の秘蔵物にとどまらず、交遊の中で知識人に利用され、コレクション類は交換もされていっそう豊富な資料となった。蒹葭堂は、研究者としても大きな足跡を残している。現、奈良県香芝市から発掘された骨蔵器(国宝)の墓誌銘を考証した歴史学的論文があり、本草学関係の著書には歯クジラ類のイッカクについて研究した「一角纂考」、植物の図譜や「禽譜」「奇貝図譜」「菌譜」などがある。 |
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四条畷市の寺院の住職を勤めていた貝のアマチュア研究家。大阪市立自然史博物館には氏による海産貝類のコレクションが保存されている。日本の海産貝類の総目録である貝類総覧を編集し、当時知られているすべての種類の学名、分布などをたいへんな労力をかけてまとめあげた。 |
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江戸時代末期の和歌山に住んだ紀州藩士。彼の残した植物標本が大阪市立自然史博物館に保管されていいる。各地の植物相・動物相の解明を目指し、ナチュラリストとしての足跡を各地に残した。 |
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師範学校を卒業して最初に赴任した学校が金剛山の近くであったため、地の利を生かして金剛山や河内葛城山の植物を集中的に調査し、『金剛山の植物(1)(2)』を発表。また、近畿植物同好会2代目会長を20年間にわたって務めた。同好会創立60周年記念『大阪府植物目録』出版にも尽力した。 |
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奈良市生まれ。大阪市立大学理学部生物学科で長く研究と教育を行ったナチュラリスト。現生植物分類学に基礎をおいた古植物学研究を展開した。1950年代から1960年代にかけては、ミツガシワの種子やハンカチノキの内果皮の植物遺体の研究に取り組み、1970年代以降は遺跡から産出する植物遺体の研究に精力的に取り組んだ。また、自然史博物館友の会会長を1974年から2001年に亡くなるまでの長きにわたって務めた。 |
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大阪市立自然科学博物館の元学芸員。「シダとコケ談話会」を結成し世話をするうちに、苔類の研究に専念するようになった『近畿地方の苔類1、2』(大阪市立自然史博物館収蔵目録3、4)の著者。学芸員をしばらく務めた後、追手門学院高等部に移り、ナチュラリストとしての天性と、持ち前の感激屋性分で、多くの教え子たちを魅了した。 |
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高石市高師浜、のちに堺市百舌鳥に在住。あらゆる甲虫類に造詣の深い人物で、関西の甲虫相の解明に大きく貢献した。長い年月をかけて収集した約 66,800点以上の、おもに甲虫の標本(模式標本38種74点を含む)は、現在すべて大阪市立自然史博物館に所蔵されている。 |
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小学校の先生として追手門学院に勤務。戸澤信義さん、寺西暢さん、安松京三さん、岩田久二雄さん、竹内吉蔵さんといった当時のそうそうたるハチ研究者と親交があり、サトウセイボウモドキCleptes satoi Tosawa 1940、サトウチビツヤハナバチCeratina satoi Yasumatsu 1936など、佐藤さんが採集した材料をもとに新種として記載されたハチもある。大阪市立自然史博物館の書庫には佐藤文庫として佐藤さんの集めた国内外のハチの文献が残っており、また「佐藤ノート」とでも言うべき、ぎっしりとメモの書き込まれたノートも保存されている。 |
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大阪生まれで、北野中学(旧制)から京都帝国大学を卒業したのち、実業界で活躍するかたわら、昆虫の研究にも情熱を注いだ。シバカワツリアブ、シバカワトゲシリアゲなどの昆虫名にも名前が残っている。昆虫学というものが日本で始まったばかりで、まだ学術雑誌があまりなかった時代に、『昆虫学雑誌』(1915年に京都で創刊?1919年で廃刊)の創設や運営などに、資金面からも尽力した。 |
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茨木市生まれ。茨木高校在学中から大阪昆虫同好会に入会して蝶の研究を志した。1986年には蝶研出版を設立。フルカラー月刊誌『蝶研フィールド』、『データ集蝶類年鑑』、採集ガイドシリーズなどを出版し、蝶研サロンを主催し、日本の蝶学をリードした。 |
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中部地方の出身で、もともとは蒔絵の職人。絵柄の参考にするために昆虫の標本に興味を持ち始めた。京都で私設の花園昆虫研究所を作り、昆虫標本の販売や昆虫研究者らへの提供などを行う。1939年に阪急電鉄が宝塚昆虫館を開館させる際、展示標本をほぼすべて、自身の標本から提供し、また昆虫館に勤務して、資料拡充の活動を支えた。 |
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大阪市立自然科学博物館(現・大阪市立自然史博物館)初代館長。第二次世界大戦後の荒廃した「おおさか」に博物館を7年余りの歳月を費やして立ち上げた。その過程で幅広い分野の町人学者や博物館のファンを育て、さらに、自然保護に尽力し多くの成果(山陰海岸国定公園の指定、大阪南港の野鳥公園の創設、淀川の葦原やワンドの保全等々)を実らせた。 |
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大阪出身で城北付近に在住した昆虫研究家。テラニシセスジゲンゴロウ、テラニシハリアリなどは、寺西さんに献名されたもの。東京農業大学を卒業後、米国農務省昆虫局横浜出張所に勤務のかたわら、おもにアリの研究をつづけていた。42歳の若さでこの世を去り、その早い死を悼む仲間たちの文章が昆虫学雑誌につづられているほか、未発表も含む多くの論文が寺西暢遺稿集(1940年)に掲載されている。 |
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阪急の社員として宝塚昆虫館の創設に携わる。他の業績の1つに1932年の『箕面産昆虫目録』がある。当時一地域の昆虫研究がこれほど綿密に調べられ報告されるのは珍しいことで、その後もこの目録は他の昆虫研究者も参加した大阪府農林部による箕面山の動物相調査により、多くの種が追加、訂正され、充実したものとなっている。自然史博物館に寄贈された戸澤コレクションは34,000点あまりの標本からなるが、戸澤さん自身はハチの研究者であったため、その3分の1以上がハチの標本である。 |
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旧制中学や高校の教諭として勤めながら、コケ植物の研究を行う。近畿地方を中心に採集された約43,000点の標本は、近畿地方の蘚類の基礎資料としては他に類を見ないものである。また『大阪府植物誌』での314種におよぶ蘚類目録ほか、近畿地方の蘚類相の概略を明らかにしたことは、氏の丹念な研究に基づく成果である。 |
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大阪市立自然史博物館前館長。1973年に生まれた自然史博物館第四紀研究室の最初の学芸員。専門は花粉学・古植物学。「人と自然の関わり」を、人類が活躍した第四紀を通じて歴史的に解明するために、完新世や段丘時代の地層と環境変遷についての研究を中心にした。大阪以外の地域でも多くの仕事をしており、特に長野県の野尻湖発掘では、多くの仲間であり弟子であった人たちと共に、8万年前から現在に至る、植物から見たくわしい環境変遷を明らかにした。 |
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日本や東南アジアで多数のカミキリムシを新種記載し、アマチュアとして、カミキリムシの研究では世界に名を残した人物。大阪、船場の呉服屋の長男として生まれ、商売を継いだ後も少年時代からのカミキリムシへの情熱は絶えず、近畿甲虫同好会の設立に加わったのと相前後して、家業のほうはやめてしまった。ハナカミキリの系統分類研究で博士の学位を取った後、大阪城南女子短期大学で教鞭をとった。 |
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大阪市立自然史博物館の前身の、旧自然科学博物館へ就職し、その後26年間学芸員をつとめる。著書も多数。研究テーマは、最初はハナカメムシという小さなカメムシのグループの分類だったが、昆虫の進化や系統に強い興味を持つようになった結果、「日本列島の昆虫相形成史」の研究に移った。「昆虫団体研究会」、「関西トンボ談話会」、「近畿オサムシ研究グループ」、「直翅類研究グループ」、「大阪の昆虫を調べる会」、「大阪のアサギマダラを調べる会」など、多くの研究サークルを立ち上げて仲間を増やし、「ともに学ぶ喜び」をモットーに、プロであれアマチュアであれ、年齢も関係なく、誰とでも一緒に調査・研究をし、その成果を共有することを貫いた。 |
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大阪層群の植物化石を研究したナチュラリスト。小学校、高校の理科の先生を長くつとめ、その後帝国女子大学に勤務し、研究と教育を行った。現生植物や植物遺体のプレパラートの作成や顕微鏡写真の撮影を得意としており、三木さんと共同でメタセコイアとセコイアの気孔と表皮細胞の状況を、現生の植物と植物遺体で比較し、日本に生育していたメタセコイアとセコイアの染色体数を推定した。 |
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和歌山県日高町の出身。小学校等の教育現場で活躍した後、大阪市立自然科学博物館学芸員としてその立ち上げに携わった。近畿植物同好会などのナチュラリスト組織の設立と運営にも加わる。田代善太郎さんとともに『大阪府植物誌』を著し、後にこれの再編も行った。学芸員を退任後は、夙川女子短期大学教授や、各地の文化財審議委員等を歴任しつつ、近畿植物同好会会長として植物研究にいそしんだ。 |
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和歌山の林業家。シダの研究を行い、しだとこけ談話会の一員として、活躍。和歌山県下全市町村を網羅する調査をし、また大塔山系、大杉谷の調査とその保護に心血を注いだ。また、和歌山の自然を見つめた先人たちの仕事の発掘にも力を注ぎ、熊野物産初志の復刻などにも大きな役割を果たした。『南紀から地球の植物を見る』(研成社)の著者。 |
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「生きている化石」と言われるメタセコイア(針葉樹、スギ科)の化石の発見者。京都大学、大阪学芸大学、大阪市立大学、武庫川女子大学で研究と教育を行った。初めは水草の研究をしていたが、その後植物遺体に注目し、多くの新属や新種の発見をした。日本各地の新生代後期の植物遺体を調査を行い、採集した水草標本と植物遺体は自然史博物館に寄贈されている。 |
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それまでだれも手をつけなかった日本のクモの分類体系を明らかにし、日本のクモ学発展の原動力になった人。その成果は『原色日本蜘蛛類大図鑑』(保育社、1960年初版発行)やその他の論文であらわれている。147にも及ぶクモの新種を発表。クモ学会の幹事・会長として会の運営に携わった。 |
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海藻、軟体動物に関心が強く、全国から標本を収集し、膨大なコレクションを作りあげた。この標本は大阪市立自然史博物館に収蔵。長年、京都大学瀬戸臨海実験所の非常勤講師として学生の実習指導に当たり、また1949年に創設した「南紀生物」同好会の活動を通して、ナチュラリストの輪を広げた。 |
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