第2展示室 > 大阪平野のおいたち B.大阪平野のおいたち |
![]() およそ2万年前、地球上はとても寒く大陸に氷河が発達したため、海面は今より100m以上も低くなっていた。そのため、大阪湾も瀬戸内海も干上がって、広い陸地になっていた。そこにはナウマンゾウやオオツノジカが、たくさんすんでいたことだろう。このころを古大阪平野の時代とよんでいる。淀川は他の川と合流しながら古大阪平野を流れ、紀伊水道で海にそそいでいた。まわりの山々は主にナラ類やシラカバなどの広葉樹林におおわれ、ヒメマツハダや五葉松のように、寒い地方にはえる針葉樹も混じっていた。 しだいに気候が暖かくなり、海面が上昇してきて、およそ1万年前には、海は今の大阪駅のあたりまでやってきた。そして今より暖かかった。およそ6000年前には、海面は今より少し高くなり、生駒山のふもとまで海におおわれた。このころを河内湾の時代という。大阪城から南に続く上町台地は、当時、海につき出した半島になっていた。 地下鉄やビルの工事で地下深く穴を掘るときに出てくる海の貝は、この時代にすんでいたものである。ときには、大きなクジラの骨がみつかることもある。 続いて、海面が少し低くなるとともに、上町台地の先から北へ砂州がのびてきた。そのため河内湾の入口はせまくなり、海水が入りにくくなって、河内湾は河内潟へと移りかわっていった。河内潟の入口あたりでは、チリメンユキガイのような海水と真水とが入りまじる所にすむ貝がいたが、潟の奥には、セタシジミのような、真水にしかすめない貝がいた。淀川や大和川がはこび込む大量の土砂によって三角州が作られ、河内潟は河内湾時代よりずい分せまくなった。三角州の上では、私たちの祖先が、イネを作りはじめた。 上町台地からのびていた砂州は、さらに北へのびて、1800年前ごろ、ついに海水は河内へ入れなくなってしまい、河内湖の時代になった。河内湖は、大雨のたびにはんらんしたので、その対策として5世紀に上町台地の北に難波の堀江が掘られた。すると、その一部には再び海水が侵入した。河内湖のなごりは、江戸時代になっても今の東大阪市鴻池付近にあった新海池と、大東市深野にあった深野池としてのこっていた。 |