自然史関係の本の紹介(2002年上半期分)

【★★★:絶対にお勧め、★★:けっこうお勧め、★:読んでみてもいい、☆:勧めません】

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●「オシドリは浮気をしないのか」山岸哲、2002年1月、中公新書、740円+税、4-12-101628-9
2002/6/30  ★

 この春、京都大学を退官した著者の研究史的な本。ある鳥の研究者が、どういう順番で、次々といろんな対象を研究(+収集)していったかを知ることができる。
 イントロ的な第一章を除くと、鳥の卵コレクターだった少年時代(第二章)、カラスの集団ねぐらを観察した信州大学時代(第三章)、ホオジロのなわばりを調べた長野県の中学校の教師時代(第四章)、都市公園でモズの社会構造を調べた大阪市立大学時代(第五章)、マダガスカルのオオハシモズを調べた京都大学時代(第六章、第七章)。と経年的に、著者の経歴と研究歴をたどっていける。
 鳥類学や生態学などの理屈の説明もあるが、各所に関連する部分が出てくるだけなので、あまり体系だってない。むしろ著者の主要な業績が、主要な図表で示されているので、巻末の引用文献と合わせて、業績一覧(+個人史)として読むのが妥当でしょう。
 できれば、長野でホオジロを研究してたのが、どうして大阪ではモズをはじめたか(確か植物食の鳥のなわばりを調べていたので、今度は肉食の鳥のなわばりを見たくなったのではなかったか?)、そして京都に移るとどうしてマダガスカルに行くようになったのか。などといった研究をはじめるきっかけを、もっと書き込めばよかったと思います。


●「ゾウの時間 ネズミの時間」本川達雄、1992年8月、中公新書、680円+税、4-12-101087-6
2002/6/22  ★

 副題の「サイズの生物学」の通り、動物の大きさが違えば、何が違い何が同じなのかを、いろいろと紹介してくれる。たくさんのグラフが出てくるが、すべての横軸は体重か体長になっている。
 サイズとの関係があげられるパラメータを適当に並べると、心臓が打つ間隔・寿命(第一章)、 代謝量・酸素消費量(第三章)、摂食量・餌の体重・生息密度・行動圏の広さ(第四章)、移動速度(第五章)、脳や心臓や肺など器官のサイズ(第九章)など。
 サイズを切り口に、形態学・生理学・生態学を横断しての議論は、とても新鮮(少なくとも最初に接したときは)。残念ながら、第六章以降はサイズという切り口がややもすれば不明確になり、さまざまな生物のデザインを説明する方向になっていく。説明の一つとしてサイズも出てくるが、最後の2章にいたっては、サイズはほとんど関係してこない。
 ちなみに1990年頃に著者の特別講義を聴いたが、内容はこの本のまま。講義内容をまとめた本なんでしょう。つかみはOKなんですが(何よりタイトルはすばらしい。これがロングセラーの理由でしょう)、最後までつきあうのはちょっと疲れる。


●「文明が育てた植物たち」岩槻邦男、1997年5月、東京大学出版会、2400円+税、ISBN4-13-063312-0
2002/6/20  ☆

 まえがきによれば、”本書はヒトが文明を育ててくる過程で、多くの生物種を滅ぼしてきただけではなくて、新しい種の創成にも貢献したことを論証しようとしたものである”そうな。とは言いつつ、現在多くの生物が人間活動によって絶滅の危機にあり、共存の道を探らなければならない。といったお決まりの論調の部分も多い(第1章、第2章、第3章)。
 本筋である章の内容を追っていくと。第3章では、植物の生活環と有性生殖の得失を紹介(有性生殖の利益については、まだいろんな議論があるのに大胆すぎる説明がされているように思います)。第4章では、自らのグループのシダの研究結果を中心に、多くの植物が有性生殖を放棄していることを紹介。第5章では、シダ以外の植物を含め、人為的影響を受けた環境に、性を捨てた植物が多いと論じ。第6章で、一部の植物が性を捨てたのかを論じている。
 議論としては第6章が一番重要なはずだが、結局、「人為的攪乱を強く受けた環境に、性を捨てた植物が多い」→「そのような環境をヒトがつくり維持しているために、性を捨てた植物が進化してきたのだろう」と単純につなげた議論があるだけ。そもそもどうして人為的攪乱を受けた環境では、性を捨てると有利なのかという議論すらろくにない。ここで言う人為的攪乱を受けた環境には、市街地から農耕地周辺、里山、牧草地、さらにはアルプスのお花畑まで含めているのに!
 結局のところ、どうして一部の植物が有性生殖を放棄したのかには、納得できるような議論はなく、不満だけが残ります。「人為的攪乱を強く受けた環境には、なんでか知らんけど、有性生殖を放棄した植物が多い」という内容だけなら、もっと短くまとめられるだろうに。全体にものすごく冗長な内容です。むしろ著者の自然観にふれるための本か。
●「共生生命体の30億年」リン・マーギュリス、2000年8月、草思社、1800円+税、ISBN4-7942-0991-6
2002/5/16  ★

 細胞内共生による進化(著者に言わせると連続細胞内共生説)でよく知られたマーギュリスが、自らの生い立ちを交えながら、共生をキーワードに、好きなことを書いた本。原核生物から現生生物あたりの生物の分類や進化について、多くふれられている。プロローグによると、著者が取り組んできた二つの主要なアイデア、細胞内共生とガイアを関連づけようとする意図もあるらしい。
 この本の中で言い放たれている内容には、エレイン・モーガンのアクア説とどっこいどっこいの大胆発言も多いように思う。しかしマーギュリスが無視されないのは、一方できちんとしたデータを提出して、科学的に実証できているのはどこまでかを、はっきりわきまえているからだろう。
 ガイア仮説に関しては、”多くの人が主張しているような「地球は一個の生物である」という考えではない”として、その歴史を含めてわかりやすく解説してあり勉強になった。でも、「地球生態系」という言い方ではなぜいけないのかはよくわからなかった。なんかガイアという言葉のイメージが好きなだけのよう。

●「人類の起源論争 アクア説はなぜ異端なのか?」エレイン・モーガン、1999年12月、どうぶつ社、2200円+税、ISBN4-88622-311-7
2002/4/26  ☆

 一部ではトンデモ本とも評価されるエレイン・モーガンの本です。悪口はちゃんと読んでからと思って、最新作を読んでみました。思っていたよりはまともな内容でした(でも突っ込みを考えながら読むと疲れます)。ただし、”誰がどんな主張をしたかをちゃんと引用して議論しないと相手にされないことを私は学んだ”てな主旨の文章が目に入るところを見ると、以前の作品は読まない方が無難かもしれません。
 著者は、大学で英文学を学び、脚本家やサイエンスライターとして活躍し、ハーディのアクア説に出会ったとか。科学における議論の仕方を学ばずに、アクア説を叫び始めたんじゃないかと思います。自分でとったデータに基づく論文ならともかく、他人のデータに基づいて議論をする場合には、誰のデータを誰のアイデアを引用したかは、基本中の基本。それをきちんと整理して、評価した上で、自分のアイデアを提示してもらわないとね。そんなこともきちんとせずにアイデアだけを主張しても(すでに名のある大御所ならともかく)受け入れられません(またそんな変人は世の中にたくさんいる!)。とここまでは、言葉の端々から以前は引用もせずに議論をしていたに違いない、との決めつけに基づいて。まあ、いきなり本を書いて主張しはじめたようなので、異端とされたというより、無視されたんでしょう。レフリーシステムのある雑誌に載った論文以外は、科学論文として相手にされないでしょうし。
 つまり、著者のアクア説は、まだレフェリーのチェックを受けていなさそうです。で、この本を投稿論文と言うことにして、レフェリーの一人としてコメントを。
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 まず全体的な問題点について
◎二足歩行以外の議論では、”ヒトのある特徴が、他の哺乳類ではおもに水生哺乳類にしか見られない”→”したがってヒトはかつて水中生活していたことがある”という論法になっている。筆者はこれを収斂という現象と同じ説明だとしているが、この論法は”熱帯にいる白い動物に対して、この種は極地方で進化したに違いない”というのに等しい(筆者は極地方に白い動物がよく見られるという収斂の例をあげている)。収斂というのは、現在同じ選択圧下にいる(と思われる、あるいは同じような環境にいる)複数種が、同じ形質を共有している時に使われる語。過去に選択圧のかかっていた環境を推測するには、論拠はあまり強くない。なにより他の選択圧(or環境)への適応である可能性を否定しない。
◎ヒトという種の個別的な進化のシナリオを問題にしているわけであるから、同じ環境下にあってもヒトだけが(かならずしも最適ではない)特殊な適応をする可能性は否定できない。したがって、同じ環境に生息していたのなら、他の類人猿にも同じ変化がおきないとおかしい、というのは強い論拠にならない。
◎アクア説の都合上、いくつものヒトに見られる特徴を、ほとんど同時に(水中生活への適応として)獲得したものとして、議論される。しかし、とくに化石に残らない特徴については、たとえば直立二足歩行よりはるかに後になって、あるいは先行して獲得していた可能性がある。獲得された時期が大きく異なれば、まったく違う選択圧に対する適応の可能性がある。そうなると、400-500万年前の比較的短い期間にヒトは水生生活していたという著者の説の根拠とはならない。
◎ヒトの様々な特徴について、それが水中生活への適応である可能性が繰り返し述べられる。しかし、水生生活の程度は、浅瀬を渡る程度から、潜水への適応まで様々。浅い水辺もある環境への適応と、完全な水中生活への適応は、大幅に異なる可能性があり、どの程度の水への適応を想定するのか明確にする必要がある。
◎仮にヒトがかつて水生生活をし、その環境に適応したさまざまな特徴を獲得したとしても、その後はるかに長い期間の陸生生活(当然陸生生活に適応したはず)の後も、なぜその特徴を保持しているのかは、まったくふれられていない。言葉の獲得や道具使用の全適応となったと見なされる特徴はともかく、薄い体毛や厚い皮下脂肪はサバンナなどでの生活では不利だろうとまで論じているのに!

 次に水中生活の適応として取り上げられているヒトの特徴について。ただし、我田引水的になんでもかんでもアクア説に結びつけてくれるので、すべては取り上げられない。この本の中で取り下げられている汗と涙、及びなぜか最後でサラリとしか取り上げていない皮脂腺・体毛の向き・鼻などは除き、大きく扱われている点だけをリストアップする。
【→の前に著者の主張、後ろにコメントを記す】
◎二足歩行:開けた地上での二足歩行の有利性を論じた諸説を比較し、すべてを退ける。その上で、「二足歩行は浅瀬を渡る行動から生まれた」という説を提唱。→二足歩行が有利な状況としては、他の説明よりもはるかに説得力がある。ヒトが二足歩行を獲得した時代の、ヒトが分布していた地域の環境が、”浅瀬を渡る必要性が選択圧となって形態変化まで起こす”環境だったのかを検討する必要がある。またこの説明は、以降で述べられる水生生活とはかなり異質である。
◎薄い体毛:哺乳類でヒトと同じように体毛がほとんど見られないのは、ハダカデバネズミと厚皮動物(ゾウ、カバ、サイ、ジュゴン、バクなど)のみ。厚皮動物は陸生でも泳ぎが上手いし、水が好き。また厚皮動物は大型で、水中なら重い体重も苦にならない。したがって、厚皮動物はもともと水中に住んでいて、薄い体毛も水生生活への適応。したがって、ヒトの薄い体毛も水生生活への適応。→ヒトのこの特徴が、いつの時点で獲得したのかはわからない。またゾウやサイが薄い体毛を持っていて乾燥したサバンナでやっていけるのは、乾燥した環境でも何らかのメリットがあることを示している可能性がある。さらにヒトと同じように水生生活に適応した後に陸生生活をはじめたゾウやサイに、たとえば厚い皮下脂肪といった特徴がないのはなぜ?
◎厚い皮下脂肪:他の霊長類は、ヒトほど体脂肪率が高くない。大量の皮下脂肪を蓄える哺乳類は、冬眠する哺乳類と水生の哺乳類。その内、ヒトと同じように皮下に分厚い脂肪層を持つのは、水生哺乳類。分厚い脂肪層は、水中での体温保持に役立つと同時に、浮力を得るにも役立つ。この特徴は、水中生活に役立つ。→ヒトがどの時点でこの特徴を獲得したのかはわからない。他の霊長類でも運動が足りず、食物が豊富だと、ヒトと同じように肥満するという点は、単に近年のヒトの栄養状態がいいということを示している可能性がある。
◎喉頭の後退:同じ特徴を持っている事が知られているのは、ジュゴン・セイウチ・アシカ。他の類人猿は後退していない。喉頭が後退すると、口呼吸が可能になる。セイウチや潜水する鳥は口呼吸する。したがってこの特徴は水生生活への適応として発達した。→水生哺乳類の中でも喉頭が後退している種は限られている。この点を検討して、水生生活に喉頭の後退が本当に適しているかを検討すべき。
◎呼吸の意識的コントロール:よく喋るにはこの能力は不可欠とした上で、他の霊長類はあまり喋らないので意識的に呼吸をコントロールできないだろうと推測。アザラシやネズミイルカでは潜水するときに呼吸をコントロールできる。したがってこの特徴は水と関係のある状況で出現した。→意識的に呼吸をコントロールする能力がどんな動物に見られるかの検討が不十分。せいぜい、潜水という行動と共に獲得した能力かもしれない程度。またヒトのこの能力が、いつの時点で獲得したのかはわからない。
 
 以上のように、この本にはおもしろいアイデアが含まれており、また二足歩行に関する諸説に含まれる問題点の指摘には見るべきものがある。しかし、
・自説が具体的に何を主張しているかの整理が不充分(なんでも手当たり次第に自説に結びつけている。一方で水生生活の中身が不明確)。
・また自説が事実によってどこまでサポートされているかの吟味も不充分(都合のいい事実だけを取り上げている面が強い)。
 大幅な書き直しの後、再度レフェリーがチェックすることにする。レフェリーとしては、アクア説といった実体が不明な主張はせずに、「二足歩行はどのような生息環境で進化したか」という点に絞って、再度投稿することを勧める。
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 アホみたいに長々と書きましたが。まとめると、アクア説ってのは、せいぜい”そうも考えられなくはない”の域を出ていません。説得力があるなと思ったのは、二足歩行が有利に働く状況についての議論のみです。
 進化研究の中には、検証不能な歴史学的側面を強く持つものがあります。ヒトがどのような環境で進化したかというのは、まさに歴史学。再現が不可能で、さらに個別的で特殊性の高い出来事の研究です。定義次第やけど、アクア説を擁護(?)している解説にいみじくも書いてあるように、科学ではないと言われても仕方がないシナリオ作りです。問題となるのは、どのシナリオが一番もっともらしいかだけ。
 ただし、ラカトシュの研究プログラムという科学の定義に従えば、このアクア説を機に、どういう動物で呼吸を意識的にコントロールできるのかとか、体毛の生える向きは何で決まるのか、といった研究が進展すれば、アクア説も科学の仲間入りです。まあ、少なくともアクア説を通じてそんな視点があったかと思った点もありましたから、この本に関する限りトンデモ本と言うのはかわいそうでしょう(アクア説に関する以前の本はよく知りませんが)。しかし、本に書いたことを鵜呑みにする人には勧められません。一方で、それなりの知識をもった人が批判的に読んだり、批判的に本を読む訓練にはお薦めかもしれません。

●「ワニと龍 恐竜になれなかった動物の話」青木良輔、2001年5月、平凡社新書、740円+税、ISBN4-582-85091-X
2002/4/22  ★

 ワニの形態・分類学の第一人者であり、何よりワニオタクの著者が、思いつくままにワニについて書いて、ワニの魅力を布教しようとしたような本。おかげで、すっかりワニが好きになりました。
 第一章「龍は実在の動物だった」では、龍とは古代中国に生息したマチカネワニのような温帯性の巨大ワニの事だと力説。第二章「恐竜にならなかった龍・ワニ」では、ワニの話をしつつも、恐竜の絶滅の原因として紫外線不足という説を展開。第三章「ワニのかたち」では歯・唇・瞼などワニの形態を、第四章「ワニの食卓」ではワニの食物を、それぞれ紹介。第5章「人との関わり」は、エピローグみたいな感じ。
 とにかく全編、ワニへの愛と、爬虫類の形態への造形の深さがあふれている。が、骨の名前など形態学の用語が盛んにでてくるわりに、その大部分に図がなく、説明も控えめ。そのため、形態学の話題は、たいていの読者(もちろん私も!)にはチンプンカンプン。それが残念と言えば残念。

●「鳥の渡りを調べてみたら」ポール・ケリンガー、2000年5月、文一総合出版、2800円+税、ISBN4-8299-2144-7
2002/4/15  ★★

 鳥の渡りについて長年研究してきた著者が、一般向けに鳥の渡りの様々な側面を紹介した本。研究に付き物のややこしい理屈や数式などは使っていないので、楽に読める。
 「鳥の渡りの謎」(平凡社)など渡りに関する本の多くは、渡りにおけるナヴィゲーションシステムなど、いくつかの側面を重点的に取り上げる事が多い。この本は、他の本で大きく取り上げられる部分の扱いが控えめな一方で、渡りの時の高さやスピード、飛行の仕方、中継地や経路の選び方など、ほとんどあらゆるといっていいほど多面的に取り上げている。鳥の渡りに含まれる様々な側面を知るのにお薦め。
 本書の最後では、渡り鳥の保護の問題が取り上げられる。渡り鳥の保護を考えるときは、しばしば繁殖地と越冬地の両方の保全の必要性が指摘される。しかし、干潟に依存するシギ・チドリ類などを除けば、渡りの途中の中継地の保全の重要性はあまり問題にされない。渡りは、多くの鳥にとって命がけの年中行事で、実際多くの鳥が渡りの途中に命を落としている。これを考えると、渡りの経路の安全性や中継地の保全の重要性を指摘している本書の意義は大きいだろう。

●「木と動物の森づくり」斎藤新一郎著、2000年9月、八坂書房、2000円+税、ISBN4-89694-460-7
2002/4/11 ★

 1章は樹木の果実と種子、2章は種子散布(及び栄養繁殖)、と前半はいろんな用語を出して、ひたすら名前をつけて分類してみせてくれます。用語の説明の中で、まるで説明されない専門語も頻出します。樹木の種子や繁殖絡みの用語集としては、参考になるかもしれませんが、読むのは辛い。
 3章以降では、動物散布の内、被食型散布と貯食型散布について、著者の研究内容、及びよく知っている北海道を中心に紹介されます。植物の側から見た動物散布の様々な側面は、個々の現象には知らないことが多く、なかなか興味深く読めました。とはいうものの、動物を含めた種子散布について、新たな視点はとくに示されていないと思います。
 全体として印象的だったのは、林学研究者の著者と、同じ植物屋とは言っても、植物生態学の研究者との違いです。両者は、使う用語から違っています。あんまり交流がないんでしょうか?

●「昆虫探偵」鳥飼否宇著、2002年3月、世界文化社、1400円+税、ISBN4-418-02503-0
2002/3/20 ★★

 クマバチの探偵とヤマトゴキブリの助手が、クロオオアリの刑事との掛け合いをしながら、さまざまな殺”虫”事件を解決する。6編が収められたミステリの連作短編集。虫たちはみんな人間くさいけど、その行動はその種の本来の生態をそれなりに反映している。そして何より、事件を解くカギは昆虫の生態にかかっている。というわけで、けっこうふざけたミステリ仕立てだが、楽しく読むだけでそれなりに昆虫などの生態について知ることができる。
 著者は、九州大学でアメンボを研究したことがあるらしい。謝辞にも多くの研究者があげられており、けっこう新しい知見も取り入れられている。自然史の普及書としても、ミステリとしても、こんな手があったのかー、と思わせる1冊。鳥でも同じようなことが出来そう。

●「都市動物たちの逆襲」小原秀雄著、2001年9月、東京書籍、1600円+税、ISBN4-487-79492-7
2002/3/1 ☆

 関東を中心に、都市部でたくましく暮らしている動物を紹介している。かと思うと話は都市部に限らない移入種問題に展開。全体に、話題があっちこっちに飛びまくる印象が強い。
 最後の章では、人間が関わらずに成立している自然生態系と、人間との関わりとの中で形成された人為生態系、という持論を展開する。そして人為生態系の極相とも言えるのが、都市生態系なんだそうな。そんなラベルを貼ることで、どんなメリットがあるのかは謎。
 都市の生態系について、移入種問題について、人間と自然との関わりについて。それぞれのテーマについてもっといい本は他にあると思います。

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