「モイヤーさんと海のなかまたち」という写真絵本シリーズの1冊。ミッドウェイ島はハワイと日本の間にある海洋島、というかいくつかの島からなる環礁。海鳥、とくにコアホウドリの繁殖地としてよく知られている。そのコアホウドリを中心に、ミッドウェイ島で繁殖する海鳥とその自然について紹介した写真絵本。
コアホウドリ以外の登場する海鳥は、クロアシアホウドリ、アカオネッタイチョウ、オオグンカンドリ、シロアジサシをはじめとするアジサシ類。いずれも日本でも記録のある鳥だけれど、なかなか見ることもままならない海洋性の鳥。それの巣がたくさん見られるとは。美しい写真を見ていると、一度行ってみたくなる。
最後の方は、海洋のゴミ問題にあてられている。海に捨てられたゴミが海流にのって、太平洋にぽっかり浮かぶミッドウェイに山になっているのを見ると唖然とする。100円ライター一つでも、海に決して捨てないように! その一つが、はるかかなたのミッドウェイでコアホウドリのヒナの命を奪うかも知れないのだから。
絵本作家であり、鳥の巣コレクターでもある著者による絵本。みずからのコレクションを中心に、世界のおもしろい鳥の巣をいろいろと紹介している。出てくる鳥の巣は、チラッとしか登場しないのを含めて、28種に及ぶ。
大きくとりあげているのは、キムネコウヨウジャク(ハタオリドリの一種)、エナガ(中に鳥の羽がいっぱい)、オナガサイホウチョウ(葉っぱを縫い合わせるやつ)、セッカ(クモの糸で縫う)、シャカイハタオリ(集合巣)、ツカツクリ(大きなマウンド)、ツリスガラ(アフリカツリスガラも)、セアカカマドドリ(その名の通り土でつくった竈のような)、キバシサイチョウ(木のウロにメスが閉じこもる)、ツノオオバン(水の中に石を積み上げるて、水上に達したところに巣をつくるらしい)といったところ。
とくに体系だってもなく、おもしろそうな巣を順に紹介して、誌面が尽きた感じか。
アマガエルの行動、一生、一年の生活を、写真を多用しながら紹介した本。著者は相模原市立博物館の学芸員で、専門は植物。のはずだけど、アマガエルについてこれだけ詳しいとは…。恐るべし博物物館学芸員。この調子なら、その他の両生爬虫類も鳥も哺乳類も、ぜーんぶ詳しいんじゃないかという気がする。
そんなわけで、アマガエルを堪能できる1冊。系統分類がらみはあまり説明がないけれど、およそアマガエルについて観察会で必要なことはすべて載っているように思う。アマガエルについて知るなら、この1冊といってもいいかもしれない。博物館では重宝しそうな一冊なのは間違いなさそう。
「心」とは「私」に属することがらで、「他者の心」という言葉自体が矛盾している。とまあいきなり本のタイトルを否定するというか、タイトルの疑問の答えがいきなり出てしまう。もちろん話はそれで終わりにならず、そこからがおもしろい。
人間は、どういう状況下で他者や物に心を見出すのか。モデルとは何か現実とは何か、コミュニケーションにおいて意図がどのように伝わるのか。ニホンザルやチンパンジーとの比較の中で、人間の認識がどのようなレベルにあるのか。といった議論を経て、ヒトは「私」というモデルをどのように獲得してきたかという問題に到達する。
著者は京都大学霊長類研究所の出身で、心理学だけでなく、動物行動学についての知識がある。人間以外の動物とくに霊長類を含めた上で、動物行動学的な視点からも議論される。こうした点が、動物行動学や生態学よりの人間としては読みやすい。すぐに哲学的な議論になりがちなテーマだが、それを上手に加減してくれてもいる。
心、現実、コミュニケーション、私。日常的に当たり前に存在すると考えているものに、次々と疑いの目を向け、いずれも進化の過程で獲得してきた“生存に必要なモデル”としてしまう。一般にはどうだか知らないけど、行動生態学にひたってきた世代としては、妙に納得できる議論で、とても楽しめた。
2001年度に東京大学総合研究博物館で行われた同名の公開講座を出版したもの。録音を原稿に起こしたものがベースらしく、話し言葉で書かれ、講演録風になっている。内容は、鮨の種類と歴史からはじまって、魚、甲殻類、貝と、おもだったすしネタの話題がならんでいく。全体的には鮨という食を通じて、人と自然の関わりに目を向けようといったトーン。
企画はおもしろいし、鮨の歴史の話は物珍しい。環境破壊や過剰採取によって、次々と姿を消す近海物のすしネタ。外国から大量に輸入され、海外でも環境破壊や過剰採取を引き起こしていること。まったくの別種が馴染みの名前で売られていること。などなど興味深い話が色々盛り込まれている。
全体的には、魚介類と人との関わりについての部分はいいのだけれど、生態や形態・分類の紹介が、中途半端な感が強い。どちらかと言えば、不必要に詳しい事が多い。タイトルも内容も、人と自然の関わりという部分でまとめたら、もっとよかったのではないかと思う。
神奈川県大磯の海岸は、多数のアオバトが海水を飲みにやってくることで知られている。このアオバトを観察し、集まるアオバトを数え、アオバトがやってくる丹沢にまで足をのばし、巣を見つけと、次々とアオバトの謎に迫っていく集団こまたん。こまたんの10年以上にわたる活動の軌跡と、その成果をまとめた一冊。
アオバトの死体のそのうから、ドングリが出てきたという情報提供した事があるので、1冊寄贈していただいた。その時は、連絡をとってこられた方のハンドルネームがこまたんとばかり思っていた。“こまハイツの探鳥会”とかの略称であり、その後のアオバト調査グループの名前でもあるらしい。1991年に水を飲みやってくるアオバトを、毎日のように観察したデータはすごい。早朝から丹沢に行っての調査も大変だろうし。とにかくグループのパワーに驚かされる。
アオバトが海水を飲みに来るのは知っていたが、こんなにたくさん来るとは知らなかった。また、どうやら海水を飲むのは5月〜10月頃だけらしい。こうした調査結果は興味深い。さらに文献調査や聞き取り調査の結果もいろいろ盛り込まれていて、アオバト以外にもハトが海水や鉱泉を飲む例があるとか、冬はドングリをよく食べているらしいとか、色々おもしろい情報も盛り込まれている。なによりアオバトがこんなに謎を秘めた興味深い鳥であることが充分に伝わってくる。
個人的に気になったのは、どうやらアオバトは夏は液果を食べる種子散布者であるのに、冬は堅果を食べる種子捕食者らしいという点。胃の形態からして、てっきり種子は年中すりつぶしているとばかり考えていました。誰か飼育下できちんと調べないかな。
「知性はどこに生まれるか」の著者が、出版年からするとその前に、アフォーダンスを紹介した本。著者によるアフォーダンス解釈の紹介が中心の感が強かった「知性はどこに生まれるか」に比べると、アフォーダンスの提唱者であるギブスンの歩みからはじまって、その後の追従者の研究の紹介が中心になっている。アフォーダンスとは何かを知るには、こっちの本の方が役に立つし、なによりわかりやすい。
副題に「新しい認知の理論」とあるが、ギブスンは1960年代にはアフォーダンスのアイデアを出してたんでは? まあ、新しくはないのだけれど、ロボットのフレーム問題などと絡んで近年注目されているのでしょう。新しいアイデアを売り込んでいく際の常で、自分のアイデアとの違いが明瞭になるように、既存の理論をまず設定するという事が行われているようで。アフォーダンスの何が革新的かという部分については、話半分に聞いておく必要がありそう。
アフォーダンスの何が新しいかというよりも、アフォーダンスがどんな問題を気にするかを中心に読めば、けっこう楽しめる。
最近相次いで出版された鳥の蘊蓄本の一つ。左右見開き2ページで一つの蘊蓄。それを100連ねて、最後に参考図書が並んでいる。著者は、70名にも及ぶ。森林総合研究所の研究員が中心で、大学の教官はあまり書いていない。どちらかと言えば、若手よりなのか? 不思議な偏りのある執筆陣。
第1部「野鳥を知る」では、日本の鳥類相、分布、換羽、渡り、進化といったイントロ代わりのトピックが並ぶ。第2部「野鳥から学ぶ」では、最近の研究成果を並べようとしているらしい。第3部「野鳥をまもる」では、日本の絶滅危惧種の話題が並ぶ。第4部「野鳥を調べる」では、研究手法や理論を絡めた話題を選んでいるのかな。第5部「野鳥とともに」は、もっぱら人との関わりについての話題。
各人が比較的自分の得意な話題を提供しているらしく、多くの場合、書いてある内容自体は信頼できそう。ただ、いかんせん見開き2ページ1000文字ちょっとでは短すぎて、軽い紹介以上の内容はあまりない。全体を見渡しても、中途半端という印象が強い。
内容に一つだけ突っ込んでおくと、「16 ミルクで子育て」では、キジバトの繁殖について書かれています。大部分は問題ないのですが、最後の部分“少なく産んで確実に育てる、というのがキジバトの繁殖戦略でしょうか”とあるのは疑問。この一文の根拠は、キジバトの一腹卵数が2つと少ない一方で、高栄養のピジョンミルクを与えて育てる点にあるようです。しかし、キジバトは(というかハト類一般に)、体サイズに比べて卵サイズが小さく、粗雑な巣をつくって、何かあるとすぐに巣を放棄して、年に何度も繁殖する、という特徴も持っています。これを合わせて考えれば、キジバトは一回の繁殖にコストをかけずに、数をこなしてカバーしていると考えるのが普通。もし“確実に育てる”のであれば、卵サイズはもっと大きくして、しっかりした巣をつくるだろうと思います(なんせ強い風が吹いたら巣ごと落ちるンだから!)。
著者は、目黒寄生虫館の名誉館長。というか創立者にして、寄生虫専門の臨床医。而してその実体は、寄生虫マニア。その著者が、徒然なるままにかどうかはしらないけれど、寄生虫についてのあれやこれやを、そして最後には寄生虫館の歴史を語った一冊。
とにかく、半世紀にもわたって医者としてマニアとして寄生虫と付き合ってきただけあって、寄生虫についての蘊蓄はいろいろ。ただ医者出身のマニアであるせいか、進化や生態学の理論についてはあまり詳しくないらしい。寄生虫を含め生物の進化や生態についての理屈にはつっこみどころが満載。あまり信用しない方がいいだろう。
とはいえ、実体験に基づく寄生虫についての知識は極めて豊富。寄生虫の暮らしぶりはとても多彩で、とても楽しい。生の魚や肉を食べるのはやめようとか、生野菜はよく洗うことにしよう。と考える一方で、鳥や哺乳類を標本にするときに、もっと真面目に内部寄生虫も採集してみたくなってきた。
寄主を次々と帰る寄生虫の存在は、食物連鎖や棲み込み連鎖ならぬ、寄生虫連鎖とでもいうような生物間をつなぐ、もう一つの間接相互作用系を考えさせてくれる。それにしても最終宿主がイヌやネコっていう寄生虫は、元々は何が最終宿主だったんだろう?イヌはオオカミだったとしても、ネコは??
著者は、鳥の卵の標本を作るのが趣味、なんだろうか?とにかく、卵に小さい穴をあけて中身をスポイトで吸い出しているらしい。そんな著者が、卵の黄身の色がどのように決まってくるのかを実験したり、卵の中で雛が成長していくようすを観察したり、卵の殻の色や模様がどうやって付くのかを考えたりする。
いろんな色素を含んだ餌を食べさせて、卵の黄身の色がどのように変わるかの実験はおもしろい。のだけど、結局日替わりでいろんな色素を与えたらどうなるかというのは、前振りをしただけで実行せず。殻をはずして卵の中で成長するのを観察するのもおもしろそうと思わせて、途中で失敗しただけ。失敗原因を追及して成功させようとするのではなく、あとは普通に育てた卵を割って観察。中途半端な実験や観察はいったい何のためなのかよくわからない。自分の試行錯誤を垂れ流しにしてる感が否めない。
とはいえ、読者が鳥の卵に多少なりとも興味を持つきっかけにはなるかもしれない。いろんな餌やり実験は、ニワトリを飼っている学校ならできるだろうし。それならそれで、もっと書き方がありそうなものだが…。
一つのツバメの巣の造巣から育雛までを、毎日のように撮影した写真でつづった観察記。巣立ち後に集まる集団ねぐらの様子や、渡りの様子も付いている。
単に一つの巣を撮り続けただけだが、とくに雛が成長していく様子はかわいく、また街で見かけた巣の雛が何日齢くらいかを知るのにも役立ちそう。雛が大きくなってきた時に、よその雛が混じって一緒に給餌を受けていたという観察は、今後の研究テーマとしてもおもしろそう。
最初に前ふりとして使われているいろんな鳥の写真は不要だと思う。あと、最後の渡りの部分は中途半端にとってつけたような感じ。
子ども科学図書館という絵本シリーズの1冊。タイトル通り、タヌキについての色々なことが載っている。著者は、自由の森学園の理科教師(当時)で、生徒達と一緒にタヌキの足跡を追跡し、ため糞を調べ、死体を拾い、皮を剥いて骨格標本を作るといった活動をしている。その概要が紹介されている感じ。
ため糞の中身を調べてみたり、タヌキに消化できないプラスチックを混ぜたエサを与えてどのため糞まで運ばれるかを見たり、ため糞を使った企画はおもしろい。また、タヌキの死体を拾った月の度数分布も参考になる。
タヌキの骨格標本を作る際には、表と裏の表紙見返しにある骨の絵が役に立ちそう。あと、タヌキ、キツネ、ハクビシン、アライグマ、アナグマと中型食肉類の頭骨の横からの絵を並べているページも思わず見入ってしまう。「骨の学校」でも使われている図が多いが、一望できるのがいいところ。
この本の難点と言えば、タヌキの絵に出来不出来があるところか。とくに生きた成獣の絵があまりかわいくない。相対的に目が小さく(色が淡く)、吻部が大きいように思う。また、それを表紙に持ってくるもんやから…。中身の割にさっぱりショップで売れないのはそのせいだと思う。
「科学であそぼうシリーズ」の一冊。このシリーズは、むずかしい理屈や計算は後回しにして、まずは楽しく遊ぼう。それから観察したことから、仮説をたてて、さらに仮説の検証の仕方まで考えてみよう。そのようなプロセスから科学者になる第一歩を踏み出してみよう、というのがコンセプトらしい。
で、この本では、プラナリアを切って、再生を観察するのがテーマ。プラナリアの採集・飼育の方法からはじまって、具体的な切り方まで丁寧に説明してくれる。それから再生を観察して、その結果を考えてみようと話が続いていく。
著者は大学でプラナリアの再生について研究している研究者。で、科学者を目指す中学生くらいを対象に書いているらしい。上から見下ろすような口調がちょっと鼻につく。結局のところ、切って再生を観察するまでは100以上前からさんざん行われてきて、まだ謎は残ってるとは言え、新たな発見をするには大学の研究室にでも行かないと無理らしいという事がわかる本。プラナリアを採集して飼ってもいいけど、切ってみる気は起きなかった。設備や試薬がなくっても、新発見ができるよ、というテーマを提示できなかったのは、失敗ではないのか?
渡りといえば渡り鳥、でも同じく空を飛ぶ昆虫の中にも渡りをするものがいる。とくに蝶の渡りは目立つこともあってか、いくつかの種でよく調べられている。北アメリカではオオカバマダラの渡りが有名で、よく調べられ、渡りのコースから越冬地まで明らかになっている。日本では、同じくマダラチョウの仲間のアサギマダラの渡りがよく調べられている。アサギマダラの翅には鱗粉がない部分があって、サインペンで簡単にマーキングができるから。それに鳥と違って、蝶の捕獲には許可もいらなければ、特殊な技術や道具もいらない。おかげで、多くの人が参加してのマーキング調査が可能になった。
この本は、そうした多くの人が参加して長年続いているアサギマダラのマーキング調査を紹介したもの。多くの人が参加した調査だけに、多くの人が分担して書いている。執筆者はなんと41人にも及び、その中にはアマチュアの研究者や大学生から、プロの研究者まで含まれる。
中身はマーキングの仕方と調査参加者の体験談からはじまって、アサギマダラの一般生態および調査の成果が紹介され、そして日本各地のアサギマダラの生息情報とマーキング調査の現状と話が進む。アサギマダラの様々な側面が紹介されており、マーキング調査によって明らかになったアサギマダラの渡りは興味深いが、本の内容の大部分はよほどアサギマダラに興味のある人(とくにアサギマダラのマーキング調査参加者)以外にはあまりおもしろくない。部外者にとってみれば、むしろアサギマダラのマーキング調査に熱中する人達を愛でる本というべきか。なんせ一年間に1000頭以上のアサギマダラにマーキングする人がいるんだから。
生態系および生態系管理の考え方を中心にして、人と自然との関わりの歴史を紹介し、これからのあるべき姿を訴える本。現代アメリカを代表とする消費型社会への警鐘があちこちで鳴らされ、そのためか例として取り上げられるのはアメリカ合衆国が多い。
第1章では、過去のヒトが生態系に回復不能なまでの大打撃を与えた例として、イースター島、ギリシャ、ヨーロッパ人が到着してからの北アメリカにおける森林破壊、および日本の足尾銅山の例を紹介。第2章では、群集の有機体説とその後出てきた生態系概念といった風に、生態学における生態系観を紹介。第3章で進化、第4章で攪乱の生態系への影響を述べた後、第5章にいたって“健全な生態系”という考え方と生態系管理の考え方が出てくる。その後は、第6章でグレン・キャニオン・ダム、第7章でプレーリー、第8章で霞ヶ浦と、具体的な生態系管理の例が紹介される。
生態学者の視点で、人と生態系の関わりを様々に紹介してくれるので、他にはあまりないおもしろいまとまりがあり、けっこう参考になる。「もののけ姫」に、人と自然の単純な対立という西洋的な自然観だけを読みとるのは、少し我田引水的な気もするが、そこはありか。もっと気になったのは生態系管理の目標設定でキーとなる“健全な生態系”という考え方。曰く、“健全な生態系とは、ヒトがそこから自然の恵みを十分に得ることができるような生態系である。そこでは、多様な動植物や微生物の連係プレーによって、…多様な生態系のプロセスが円滑にすすみ、エネルギーや物質のダイナミックなうけわたしと循環が保障されている。そして、それらの担い手である動植物や微生物が、絶滅の心配なく存続することができるような条件が整えられているのである。” 感情には訴えるかもしれないけれど、曖昧でどうとでも取れる定義に思える。多少なりとも安定な系であれば、なんでも健全といえそう。
1949年、アホウドリは絶滅したと発表される。1951年、ごく少数が鳥島に生息していることが再発見される。1976年、アホウドリを見たこともない若造が、鳥島に向かい、一人アホウドリを守るための活動を開始する。それから30年近く、アホウドリを絶滅の危機から救うために苦闘してきた著者の記録。
アホウドリの保護活動と言っても、その生息状況を記録し、標識を付ける他に行われたのは、営巣地の環境改善のためにハチジョウススキを植えたのと、営巣地を引っ越しさせるためにデコイ作戦を開始したことだけ。その上、後者はまだあまり成果はあがっていない。50羽から1000羽を越すまでになったアホウドリだが、その復活は主にアホウドリ自身ががんばった気がする。その中で、アホウドリを見守り続け、世にアホウドリの現状を伝え続けた所にこそ、著者の役割があったように思う。
というわけで、この本も世にアホウドリの歴史と現状を訴えるもの。ただ、以前に書いた文章を再構成しただけなので、とにかく繰り返しが多い。読んでいくと、何度も同じ事が書いてある。重要なことは何遍でも書かなければならないか知らないが、同じ本の中にこんなにいらんやろ。著者は、同じような内容の本をいくつも出しているので、他の本を読むことをお勧めします。
カーソンが甥のロジャーとともに、さまざまな自然の感動を分かち合う話。同時に自然との接し方についてのカーソンからのメッセージでもある。そのメッセージは、とくに幼い子を持つ親に向けられている。やたら子どもの感性を持ち上げ、自然の神秘を強調する内容には少し辟易したが、共感できる部分もある。
“「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない”というくだりがある。これは、自然についての知識に自信のない親に向かってのはげまし。ところが、この部分だけを取り出して、「感じる」ことばかり重視して、いきおい「知る」ことを否定する人がいるらしい。本当なら不思議。カーソンは明らかに、「感じる」後に興味を持って、「知る」ということへ到達することを評価しているのに。むろん生きものの名前を暗記してるいるだけというのは、「知る」ということではないのは言うまでもない。
「感じる」ことは、自然とのつきあいのいわばスタートライン。「知る」ことはある種のゴール。ゴールすることよりスタートすることが大切と、カーソンは言っているのだろう。別の言い方をするなら、自然の接し方として大切なのは、まず「気づく」こと、そして「考える」なんだろう。なんとなく「感じる」だけでは何も生まれない。そして結果として「知る」ことよりも、「考える」プロセスの方が楽しいし大切。。これは、自然との接し方に限った話ではないけれど。
観察会で子どもを相手にする機会がある者として、一番印象に残ったフレーズは“海辺にわたってきたイソシギを見た子どもが、鳥の渡りについてすこしでも不思議に思ってわたしになにか質問をしてきたとしたら、その子が単に、イソシギとチドリの区別ができるということより、わたしにとってどれほどうれしいことかわかりません。” この文からは、単に感じるだけでなく、興味を持ち知ろうとすることを重視するカーソンの考えがよく表れている。
著者は、天文学、地質学、生理学など様々な分野に首をつっこんでは、門外漢ならではの視点で、しばしばその分野の常識を覆してきた研究者。その著者が、地底高熱生物圏をひっさげて生物学に殴り込みをかけている本。
地底高熱生物圏とは、数キロメートルを越える地下に、多くの最近など微生物が生息しており、そのバイオマスは地表の生物圏にもひけをとらないというもの。海底火山の噴出孔周辺に形成される生物群集のベースになる好熱細菌などにその片鱗が伺えるという。このアイデアは、さらに昔から著者が主張している地下深層ガス説につながっている。これは、石油や石炭といったいわゆる“化石燃料”は生物遺体由来ではなく、地球の深部から上がってくるのだという考え方。これまた地質学の常識にけんかを売っているらしい。その地下深層ガスをエネルギー源として、地底高熱生物圏が成立していると考える。
そんなわけで、本のかなりの部分はベースとなる地下深層ガス説の説明と立証にあてられる。地質学にまるで疎いので著者の事実の選択や紹介の仕方が妥当なものかはよくわからない。そのためか、石油パラドックスをはじめとするオーソドックスな地質学ではうまく説明できない事実が、地下深層ガス説でならうまく説明できるという主張には納得させられる部分が多い。いきおい地下高熱生物圏にも真実味がでてくる。実際、地下深部にけっこう生物がいるらしいことは明らかになってきているし、またもや著者は常識を覆すのに成功するのかもしれない。
著者は、地下深部に生物圏があると主張するにとどまらず、それこそが地表を含めた地球生物の起源である可能性にまで言及する。こうなるとSFを読んでいるような気分。地球外生命にまで夢は広がる。
このように内容はとてもおもしろいのだが、気になるのは翻訳のまずさ。原文が悪いのか知らないが、一読では頭に入ってこないこなれていない文がやたらと目立つ。それに装丁は赤い地に字が書いてあるだけ。これでは、いったい誰が買うんだか…。
日本の理系社会という切り口で取材し新聞に連載した記事をまとめたもの。切り口が、理系という漠然としたものだったせいか、よく言えば幅広いが、悪く言えば焦点が曖昧。とくに問題なのは、理系といいながら、研究者の問題を多く取り上げている点。理系がすべて研究者ではないだろうし、逆に文系の研究者もいるだろうに。また、理系は報われていないということを多くの場面で問題視しながらも、その背景に国益ばかりがちらつくのも鼻につく。理系研究者の生態や状況の一端がわかるという意味では、その道に興味のある人の参考にはなるのかも。