自然史関係の本の紹介(2007年上半期分)

【★★★:絶対にお勧め、★★:けっこうお勧め、★:読んでみてもいい、☆:勧めません】

和田の鳥小屋のTOPに戻る



●「里湖モク採り物語 50年前の水面下の世界」平塚純一・山室真澄・石飛裕著、生物研究社、2006年8月、ISBN4-915342-48-4、1700円+税
2007/6/17 ★★

 中海と宍道湖でのフィールドワークを軸に、本州各地の大きめの湖の様子をアンケート調査した結果を報告される。テーマは、水草や海草・海藻の肥料としての利用。本というより、論文のような感じ。文系の研究は、論文ではなく、本を書くんだっけ?
 かつてというか、1950年代くらいまでは、多くの湖で大量の水草が採取(日本中どこでもモク採りと言ってたらしい)されて、肥料として用いられていたらしい。採取権というものが存在し、それを巡って争いすら起きていた。自家消費だけでなく、かなりの量が流通し、重要な収入源になったいたという。しかし、化学肥料と農薬が普及するにつれて、モク採りは急激に衰退した。肥料としての必要性が低くなったせいなのか、農薬によって水草群落が衰退したせいなのかは、さだかではない。今では自家菜園用にごくわずかに採取する人がいる程度。文化としてのモク採りは消滅したと言っていい。
 ここまでは、いわば社会学的なテーマ。でも、生態学的にもとても興味深い。大量のモク採りによって、こうした湖は、いわば里湖として人の手によって多様性が維持されてきた側面がある(里山と同じように)。モク採りによって、水中の有機物と栄養塩類が除去され、それが植物プランクトンの大発生を押さえ、湖の透明度を高め、そして水草の成長をサポートした。モク採りがなくなり、湖の富栄養化が進み、植物プランクトンが増え、透明度は落ち、それが水草の成長をさまたげる。
 かつて、紹介される湖はいずれも、船の通行を妨げるほど大量の水草が繁茂しており、底まで見えるほど透明度が高かったと言う。それが今では、水草はほとんど見られず、水は緑色。水草が、植物プランクトンに置き換わっただけ。有機物や栄養塩類が、陸との間を行き来せずに、ずっと湖内に存在するようになっただけ。それ自体を悪いとは言えないけど、元の状態に戻るものなら戻ってほしい気がする。無理っぽい気がするけど。

●「カラスはなぜ東京が好きなのか」松田道生著、平凡社、2006年10月、ISBN4-582-52731-0、1800円+税
2007/6/10 ★★

 2000年から5年ほどにわたって、東京の六義園周辺の約1.8平方kmで実施したカラスの調査結果をもとに、カラスの繁殖生態と人との関わりを紹介している。データを基にしているだけあって、その記述はきっちりしている。日本での過去のカラス研究の成果も踏まえ、現時点で日本で一番しっかりしたカラスの紹介本といっていいだろう。
 カラスの捕獲は行っていないので、巣及びその周辺にあるはずのなわばりをベースにした観察。なわばりを所有している個体が同じかどうかはわからないはずではあるのだが、カラスの行動からある程度、個体識別ができるというのが面白い。観察してると、カラスにすぐに覚えられてしまい、なわばりに入るやいなや威嚇を受けたり、騒がれたりするらしい。その反応の仕方が個体によって違うのだと言う。詳しく記述されたその行動からすると、行動をベースにした個体識別はかなりの程度まで信頼できそうに思える。そして、そうした個体を区別しての観察・記述であることが、この本をよりおもしろくしている。
 後半では、やむを得ず、カラスの巣落としに関わる経緯などが紹介される。そこまでカラスを目の敵にしなくてもいいだろうに。と思うくらい東京では熱心にカラスの巣を落とすらしい。人の反応の方に、パニックに近い異常を感じてしまうほど。巣落とし効果に対しても、そのやり方次第ではあまり効果がないことを、データを示している。意味もないのに、カラスを殺して、動物愛護団体は何をしてるんだろう? 関係者はこの本を読んで、よく考えてみてほしい。
 関西でもここ数年、カラスに襲われたという話を耳にするようになった。この本によると、カラスが人を襲うかどうかには、カラスの個性の影響が大きいらしい。同時に、巣が低い場所にあると、カラスが下を通る人を警戒し、襲う場合があるという。あるいは、下に落ちた巣立ちビナに知らずに近付くのも危険。とはいうものの、ちょっと気をつければ、カラスは別に恐くない。この本を読んで、カラスと仲良くする方法を考えてみよう。

●「葉の裏で冬を生きぬくチョウ」高柳芳恵著、偕成社、1999年3月、ISBN4-03-634660-1、1200円+税
2007/6/2 ★★

 「どんぐりの穴のひみつ」の著者が、その前にやっていた研究が、ウラギンシジミの越冬生態。10年にも渡って、じっくりと観察した成果が紹介される。ドングリの穴の時もそうだったが、身近な生き物を観察して、こんな興味深い世界が拡がる事に驚かされる。
 とある観察会で、ウラギンシジミが成虫のまま葉の裏にとまって冬を越すことを知る。やがて近所の木の葉の裏を見て回り、その様子、とくにまだ生きているかを記録していく。身近に多くのウラギンシジミが越冬してるとは知らなかった。そして、その多くが冬を越せずに、次々と消えて行く。ちょっと切ないドラマがこんなに身近にあったとは。
 これだけの研究のきっかけになったとしれば、観察会でウラギンシジミの事を教えた人も教え甲斐があっただろうな〜。

●「イシガメの里」松久保晃著、小峰書店、2005年11月、ISBN4-338-21501-1、1500円+税
2007/6/2 ☆

 著者の故郷、淡路島の山手の小川で暮らすイシガメの様子を、一緒にくらす魚やヘビ、カメと合わせて紹介してくれる。雄の求愛、産卵、卵の孵化。繁殖の様子が軸といえば軸。約一年を追い掛けた体になっているが、あんまり感じさせないのは構成のなせるわざか?

●「なぜイノシシは増え、コウノトリは減ったのか」平田剛士著、平凡社新書、2007年3月、ISBN978-4-582-85365-0、740円+税
2007/5/21 ★★

 「ルポ・日本の生物多様性」などに続く、日本の生物多様性の現状を報告したルポ。ダムの撤去やコウノトリの野生復帰に取り組む現場の抱える問題からはじまり、ツキノワグマとの共存の道、地球にやさしいはずの風車が抱える問題、セイヨウオオマルハナバチやアライグマといった外来生物との関わりなど、ここ数年のホットな話題が並ぶ。
 無駄なダムを撤去すればそれで済むわけではない。コウノトリを飼育下で増やして放したとしても、コウノトリの野生個体群がすぐに復活するわけではない。地球にやさしいクリーンエネルギーなはずの風車が、多くの鳥を殺している。安全な野菜を効率よく作るのに貢献している一方で、日本の在来生態系に悪影響をもたらすことが懸念されるセイヨウオオマルハナバチ。生物多様性を守る試みは、なかなか一筋縄ではいかない。一見よさそうに思えるやり方が、思わぬ問題を引き起こしたりもする。そこで重要になってくるのが、計画をこまめに見直し軌道修正をかけるフィードバック管理の手法。
 というわけで、いつもながらバランスのとれた視点で、気にあるテーマの現状を次々と紹介してくれる。「キューダイ方式が里山を救う?」とまあ、大学者さんの言うことも、そのままは鵜呑みにしない姿勢が好感が持てる。

●「ネズミの分類学 生物地理学の視点」金子之史著、東京大学出版会、2006年12月、ISBN4-13-060188-1、5000円+税
2007/4/26 ★

 ネズミの研究一筋40年の著者が、日本のネズミを中心に、ネズミの分類学、生態学、生物地理学について語った本。合わせて、著者が学生時代をすごした1960年代の京都大学動物学教室の様子が描かれる。
 著者の指導教官は、徳田御稔。今西錦司や可児藤吉の生物の分布様式に関する研究の影響を受けた。学生時代の話には、川村多実二、鹿野忠雄、森下正明といった名前も出てくる。京都大学が日本の生態学の一つの中心であった時代。そして、研究を進める上では、村上興正の協力もあったらしい。伝説的な過去と現代をつなぐような事が書いてあって面白い。そして、1980年代まで京都大学動物学教室のとくに動物生態研究室に通じる雰囲気も見られる。懐かしいような、忘れたいような。
 著者の研究者としての歴史の話、あるいは研究についての方法論の部分は、それなりに面白い。が、ネズミ自体の話は、ネズミ研究者以外にはほとんど興味がないだろう。興味のある章だけ読めばいい本。
 ネズミの話の中では、ヤチネズミ、スミスネズミ、ハタネズミの分布の話が面白かった。分布を明らかにすることの意義みたいな話も興味深かった(なんせ分布図作成ばかりしている感があるので)。あと、ネズミの分布や生息場所選択の話って、えらく鳥と違ってて面白い。簡単に姿を観察できる鳥では、悩みもしないことを、ネズミでは深く研究している感じ。同じことを鳥でやってみたらどうなるだろう?

●「熱帯林の恵み」渡辺弘之著、京都大学学術出版会、2007年2月、ISBN4-87698-821-8、2200円+税
2007/4/26 ★★

 森林からの産出物は、丸太やチップ、パルプといった木材林産物と、その他の非木材林産物に分けられる。この本は、熱帯林からの非木材林産物を紹介していく。マングローブの魚介類や果物から、染料、香料、漆、樹脂と、さまざまな産物が登場する。
 熱帯林といえば、見たこともない遠い南の国の話と思いがちだが、我々の日常生活が、これほどまでに熱帯林の恩恵を受けて成り立っているとは驚かされる。同時にそれは、我々の生活の仕方が、熱帯の国々の人々の生活に大きな影響を与え、ひいては熱帯林の命運をもわけることが思い知らされる。
 といった、難しいことは抜きにしても、熱帯林の豊かさには、改めて驚かされるし、経済的な意味だけでもその価値の高さはよくわかるだろう。なにより、この多様性が失われるのはもったいない。
 著者は、基本的には熱帯林の非木材林産物を、我々が上手に利用することが、熱帯林を守ることにつながる、といった論調を貫いている。もちろんその通りの部分もあるだろうが、気になる部分も多い。たとえば、日本人がエビを食べまくると、マングローブが減少するという問題もある(マングローブを守りつつ、エビ養殖をという動きもあるようだが)。単に特定の熱帯産物を消費するだけでは、むしろ熱帯林の多様性を破壊することにもなることは、歴史が教えている。じゃあ、我々は熱帯の産物とどのように付き合って行けばいいのか? その肝心な部分はまるで書かれていない。各人が考えるべきことだろうが、少しは書いてあってもいいのに。と思った。

●「ダーウィンの足跡を訪ねて」長谷川真理子著、集英社新書、2006年8月、ISBN4-08-720355-7、950円+税
2007/4/25 ☆

 タイトルの通り、ダーウィンゆかりの地が次々と紹介され、合わせてダーウィンの生涯がつづられる。生家のあったシュールズベリ。大学時代を過ごしたケンブリッジ。もちろんガラパゴス諸島。そして終の住処のダウン・ハウス。その他、そんな場所もゆかりの地なのか〜、と思わせる。著者のダーウィンマニアぶりがうかがえる本。でも、まあそれだけ。
 金持ちはで、好きなことをして一生を過ごした(としか思えない)ダーウィンがうらやましくなってしまう。そして、ちょっと意地悪に、ほんまにそんなにええ人やったんか?と思いたくなる。

●「反★進化論講座 空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書」ボビー・ヘンダーソン著、築地書館、2006年12月、ISBN4-8067-1340-6、1800円+税
2007/4/23 ★

 アメリカ合衆国では、保守層を中心に根強い進化論への抵抗がある。そこで出てきたのが、ID論(インテリジェント・デザイン論)。生命は、進化によって生まれてきたのではなく、なんらかの知的存在によって作られたのだとする説。もちろん科学的に立証されていないが、反証もされていない。進化論と同じである。したがって、進化論と同様、学校で教えるべきである。なるほど、うまいこといいはる。それじゃあ、ここに「空飛ぶスパゲッティ・モンスターによる地球創造説」を提案する。これも進化論やID論と同様、学校で教えられるべきである。
 とまあそういうわけで、これがスパ・モン教の教典である。ID論者を皮肉るだけでなく、既製宗教をすべて皮肉る態度は、無宗教な人は笑えるけど、なにかの宗教を信じている人が素直に笑えるのかな? かなり多くの人を敵に回してるんじゃ? と著者の命を心配してしまう。
 ともかく、ID論の論理を逆手にとっての、反撃はとってもおもしろい。たぶんこの本でこねられている屁理屈にもならない理屈は、ID論者が実際に使っているんだろう。ID論者の進化論者への実際の攻撃をあまり知らないので、パロディが充分に理解できないのが残念。
 そして、さらに残念なのは、企画はおもしろいけど、その悪ふざけに途中であきること。最後まで読むのは辛かった。
 気になるのは、ここで用いられている(たぶんID論者が多用しているであろう)論理のすり替えや、科学的なふりをした非科学的な理屈に対して、読者のどれだけの割合がちゃんと理解できるかということ。それが理解できるなら、はなからID論者自体が存在しないんじゃ? そういう意味では、反ID論な知識層が、自己満足的に読む本なのかも知れない。

●「「退化」の進化学 ヒトにのこる進化の足跡」犬塚則久著、講談社ブルーバックス、2006年12月号、ISBN4-06-257537-X、820円+税
2007/4/21 ★

 人の体には、かつては機能していたが、今は先祖のなごりとしてあるだけで、なんの機能も果たしていない骨や器官があちこちにある。あるいは、進化の過程で、もともとの機能とは別の機能を果たすようになった骨や器官もいろいろある。多くの人にはなくても、いわば先祖返りとして、過去の機能を彷佛とさせる特徴を持った人もいる。耳小骨、ひ骨、結膜半月ヒダ、男の乳首などなど。人のからだのさまざまな場所に残る進化の足跡を、次々と紹介してくれる。
 自分の体で、進化の足跡を確かめられるというのは、とても面白い。進化って、けっしてベストの設計をするのではなく、すでにあるものの使い回しで進んで行くということがよくわかる。難点は途中であきること。気になるパートを拾い読んで行けばいいと思う。この著者の本にしては、図が多くてわかりやすい方だろう。

●「昆虫にとってコンビニとは何か?」高橋敬一著、朝日選書、2006年12月、ISBN4-02-259912-X、1200円+税
2007/2/20 ★

 「昆虫にとって※※とは何か?」というお題が28並び、それぞれに7ページ程度の短い文章が付く。合間には、カメムシ類を中心にした1ページの昆虫紹介コラム。ここにも「昆虫にとって※※とは何か?」というお題があったりもする。帯には、”ちょっとひねくれた自然論”とある。確かにひねくれた文章が並ぶ。
 ひねくれてはいるものの、著者はかなり真面目な人らしい。「昆虫にとって車とは何か?」と問えば、寄り道はするし、自分の意見を開陳しまくるが、結局はその問いに答えようとする。もちろん中には、”なんの関係もない”という答えもあったりする。中身は、昆虫を中心に自然について、そしてその経歴から農薬や農業の現状についても詳しかったりする著者的には、いたって当たり前の事が書いてあるんだろう。
 著者の考え方のベースには、人と昆虫は、少なくとも人の文明的生活と大部分の昆虫の生活は相容れないというものがある。車が走るだけで年間にどのくらいの昆虫が殺されているか、市街地ができることによって、どれだけ昆虫の生活場所が奪われたか。それに比べれば■■はたいしたことはない。という主張が多い。■■に入るものには、コンビニから昆虫マニアまでいろんなものが入ってくる。まあ大筋で同意できる。同意できない一番大きなポイントは■■に「生き虫の輸入」が入り、外国産の昆虫を野外に放す事を含めて、枝葉末節であるとしているところか。すでに大量の外来生物が入っているのに何を今さら、そして他の形で大量に昆虫を殺し、生息環境を破壊しているのに何をいまさら、という著者の意見もわからなくはないが、それを言い出したら何をしてもいいことになってしまう。個人レベルで考えた時、特定の昆虫をすべて取り尽くしたり、その生息場所を完全に破壊することはかなり難しい。しかし、外来生物の導入はそれに等しい事を個人レベルでできてしまうかもしれない危険性を秘めている。いまでいうなら、日本中のカエルを捕まえたり、その住処を破壊しまくるのは難しくても、カエルツボカビ症をまき散らしたら日本のカエルを壊滅させることは可能かもしれないわけだ。
 とまあ、気に入らないポイントもある。が、いろんな事を、ある意味真面目に、皮肉を交えながら書かれているのはそれなりに楽しい。そしてコラムもけっこう楽しい。日本で1匹しか採集されていないカメムシってのがこんなにいるとは知らなかった。

●「遺体科学の挑戦」遠藤秀紀著、東京大学出版会、2006年9月、ISBN4-13-063328-7、2900円+税
2007/2/13 ☆

 「パンダの死体はよみがえる」「解剖男」に続く、動物の遺体本第3弾といっていいはず。この3冊はいずれも、動物の死体は単なるゴミではなく、知識の宝庫であり、標本として保存するに値するんだ、ということを主張していると言っていいだろう。その内容に大差はない。そして残念なことに、その文体にも大差がない。使命感をもって邁進していく自分に酔っているような文章は相変わらず。そして、それが普及という点では最大にネックになるんじゃないかと思う。たぶん。
 死体をできる限り、標本として保存すべきだという著者の主張には同意できる。現在の研究テーマにそったものだけでなく、将来も見据えて、現在時点では無目的とも言っていいスタンスでなんでも収集保管しておくべきだという主張も、自然史博物館的には極めて真っ当だと思う。
 でもね。正直に言って、この文章にはついていけない。ハッキリ言ってうっとうしい。というわけで、文体を多少でも気にする人には勧められない。さらに言えば、前2作と、同工異曲なので、一番短くて安いのを1册読めば充分だと思う。

●「どんぐりの穴のひみつ」高柳芳恵著、偕成社、2006年9月、ISBN4-03-634730-6、1200円+税
2007/2/7 ★★

 まさにタイトル通り、著者がどんぐりの穴の秘密を調べる過程とその成果が描かれていく。著者がやったことを端的に言えば、ドングリを拾ってきて、入れ物に入れて、何が出てくるかな〜、と見てただけ(実はちょっと言い過ぎだけど)。それだけなのに、こんなに面白い。身近におもしろい研究テーマは、文字どおり転がっているんだな、と思わせる。
 圧巻は、コナラのドングリから、3年目にシギゾウムシ。あるいは、クヌギウチガワツブタマバチという微少なハチの登場か。はたまた、結局ドングリから13種もの昆虫が出てきた事か。とにかく、ドングリの中には、驚くほど多様な世界が拡がっていることを教えてくれる。

●「どんぐり見聞録」いわさゆうこ著、山と渓谷社、2006年10月、ISBN4-635-23020-1、1600円+税
2007/2/6 ☆

 6ページ程度のドングリについての小エッセイが43収められている。ある月刊誌に掲載したのを並べ替えたらしい。ドングリ関係の話題が満載ではある。よく言えば盛り沢山、はっきりいって取り留めがない。なんでもいいからドングリの話を読みたければいいけれど、多少なりとも構成のしっかりした内容を求めるのなら読まない方がいい。
 まだ、ドングリに関わる話だけがでてくるなら、ドングリ好きには勧めてもいいのかもしれない。けれど、著者の突然の思いつきや、ドングリとは関係のない想いも満載。一つのエッセイの中の構成もあいまいで、意味もなくドングリとは関係のない話題が紛れ込む。付け加えるなら、妙に馴れ馴れしい口調のような文体。
 とまあ、悪口を書いたわけだが、これって自分のブログにも当てはまることに気付いて、少しショック。

●「ドリアン 果物の王」塚谷裕一著、中公新書、2006年10月、ISBN4-12-101870、980円+税
2007/2/2 ★

 ドリアンは臭くない、実はおいしい果物であるということを知らしめようとする普及書ならぬ、布教書といっていいだろう。ドリアンのおいしさと、おいしいドリアンの選び方から始まり、ドリアンの育て方、野生のドリアンの紹介、ドリアンをはじめとする東南アジアの果物の日本での歴史、そして色々な食べ方、香りの正体が紹介される。これを読めば、一度ドリアンを食べてみたくなるのは間違いない。
 むろんドリアン万歳ってところも面白いのだが、興味深いのは東南アジアの果物の日本での歴史。戦前には今よりはるかにポピュラーな存在だったという指摘は、信ぴょう性がありそう、そして意外だった。戦後、東南アジアへの日本人の屈折した想いが、ドリアンやマンゴスチンを日本から遠ざけていたのかどうかはともかく、アメリカべったりの日本がアメリカの息のかかったバナナやグレープフルーツを多く輸入してきたというのはありそうに思った。
 あー、おいしいドリアンを食べてみたい。

和田の鳥小屋のTOPに戻る